認知戦とは何か──情報戦・心理戦との違いと認知バイアスの基本
本記事は、連載「認知戦・認知バイアス・ストローマン論法──メディア、政治家、知識人が社会に及ぼす影響と対策」全7回の第1回である。今回は、認知戦とは何かを定義したうえで、情報戦・心理戦・プロパガンダとの違い、認知バイアスとストローマン論法の基本について解説する。
はじめに──「情報を得ているつもり」が、判断を誘導される入口になる
私たちは、情報を多く持てば持つほど正しく判断できると考えがちである。しかし、現代の情報環境では、情報量の多さが必ずしも判断力の向上を意味しない。むしろ、情報が過剰に流れ込み、感情を刺激する見出し、切り取られた動画、専門家らしい人物の断言、政治家の短いフレーズ、SNS上の怒りや嘲笑が絶えず目に入ることによって、私たちは「考えている」つもりで、実際には「反応させられている」場合がある。認知戦とは、まさにこの人間の認知、すなわち知覚し、意味づけ、記憶し、判断し、行動する過程に働きかける活動である。認知戦を理解することは、単に国家安全保障の専門用語を学ぶことではない。新聞を読む、テレビを見る、SNSで投稿を共有する、政治家の発言を評価する、専門家の解説を信じる、家族や同僚と社会問題について話すという日常の中で、自分の判断がどのように形成されているかを見直すことなのである。
認知戦という言葉は、近年、安全保障や情報戦の文脈で頻繁に使われるようになった。NATO Allied Command Transformationは、認知戦について、脳が認知的優位をめぐる戦いにおける標的であり武器でもあると説明し、軍事・非軍事の活動が連動して認知的優位を獲得、維持、防護しようとするものとして位置づけている。また同ページでは、認知戦が合理性を攻撃し低下させることによって脆弱性を利用し、システム全体を弱め得るとも説明されている。 これはやや強い表現であるが、認知戦の本質を理解するうえで重要である。認知戦は、単に「相手に嘘を信じさせる技術」ではない。人々が何を重要だと感じ、何を疑い、誰を敵と見なし、どの制度を信頼し、どの選択肢を現実的だと思うかに影響を与える活動なのである。
認知戦の定義──人間の「考え方」に働きかける戦い
認知戦とは、人間や集団の知覚、感情、記憶、信念、価値判断、意思決定、行動に働きかけ、特定の主体にとって有利な認識や行動を生み出そうとする活動である。ここで重要なのは、認知戦の対象が「情報」そのものだけではなく、「情報を受け取る人間の認知過程」である点である。たとえば、ある国や組織が特定の政策について嘘を流す場合、それは偽情報の拡散である。しかし、認知戦はそれにとどまらない。事実の一部だけを強調し、別の事実を沈黙させ、怒りや恐怖を呼び起こす映像を繰り返し見せ、社会にすでに存在する不満を刺激し、異なる意見を持つ人々を互いに敵視させることによって、人々の世界観そのものを変えようとする。つまり認知戦とは、「何を信じさせるか」だけでなく、「どのように考えさせるか」「何を疑わせるか」「誰を憎ませるか」「どの制度を信頼できないと思わせるか」をめぐる戦いなのである。
認知戦の定義については、学術的にも安全保障実務の領域でも完全に一つの合意があるわけではない。近年の研究でも、認知戦は現代の紛争における中心的特徴になりつつある一方で、定義や評価方法は一貫していないと指摘されている。 しかし、共通しているのは、認知戦が情報の流通だけではなく、人間の理解、意味づけ、判断、行動を対象とするという点である。したがって本連載では、認知戦を「情報、感情、物語、社会的圧力、技術的手段を組み合わせ、人間や集団の認知過程に影響を与え、望ましい判断や行動、または判断不能の状態を生み出そうとする活動」と定義する。
認知領域とは何か──頭の中だけでなく、社会の意味づけの空間である
認知領域とは、人間が外部からの情報を受け取り、意味づけ、評価し、記憶し、判断し、行動へ移す領域である。これは単に個人の頭の中だけを指すものではない。家族、学校、職場、メディア、SNS、宗教、文化、国家、歴史認識などを通じて形成される「社会的な意味づけの空間」も含まれる。私たちは一人で世界を理解しているわけではない。ニュースの見出し、専門家の解説、友人の反応、所属集団の価値観、過去の教育、歴史的記憶、社会的空気の中で、何が重要で何が危険で何が正しいのかを判断している。認知領域とは、個人の脳と社会の情報環境が交差する場所なのである。
この認知領域が重要なのは、同じ事実であっても、どのような文脈で提示されるかによって人々の受け止め方が変わるからである。たとえば、ある統計が示されたとき、それを「危機の証拠」と見るか、「改善傾向の一部」と見るかは、比較対象、期間、見出し、解説者の語調、視聴者がすでに抱いている不安によって変わる。ある政治家の発言も、全文で読めば慎重な留保を含んでいる場合があるが、短い切り抜き動画では過激な発言のように見えることがある。認知領域への働きかけとは、まさにこの文脈、感情、注意、記憶、解釈の流れに介入することである。
認知戦と情報戦の違い
情報戦とは、情報の収集、分析、発信、防護、妨害、欺瞞などを通じて、自らに有利な情報環境をつくる活動である。軍事領域では、通信妨害、サイバー攻撃、電子戦、機密情報の収集、敵の指揮統制機能への妨害なども情報戦に含まれる。民間領域では、メディア戦略、広報、危機管理、SNS上の情報拡散なども広い意味では情報戦的な側面を持つ。情報戦の焦点は、情報がどこにあり、誰がアクセスでき、どのように流れ、どのように保護または妨害されるかにある。
これに対して認知戦は、情報が人間の頭の中でどのように処理されるかに焦点を置く。情報戦が「情報の流れ」をめぐる戦いであるとすれば、認知戦は「情報によって形成される理解と判断」をめぐる戦いである。もちろん両者は密接に関係している。偽情報を流す、通信を妨害する、都合のよい映像を拡散する、敵対勢力の情報源への信頼を低下させるといった行為は、情報戦であると同時に認知戦の一部にもなり得る。しかし、認知戦の最終的な狙いは、情報を届けることそのものではない。対象者が何を事実と感じ、どのような感情を抱き、どのような判断を下すかを変えることにある。
たとえば、選挙期間中に大量の偽情報を拡散する行為は情報戦である。しかし、それが有権者に「どの候補も信用できない」「選挙制度そのものが不正である」「投票しても意味がない」と感じさせ、投票行動や政治参加を変えるなら、そこには認知戦の効果が生じている。情報戦は手段であり、認知戦はその手段によって人間の判断過程を変えようとする上位の目的を持つと考えると理解しやすい。
認知戦と心理戦の違い
心理戦とは、対象者の感情、士気、態度、意欲、行動に影響を与えるための活動である。戦時に敵兵の戦意を低下させる、住民に降伏を促す、敵国民に不安や不信を広げる、味方の士気を高めるといった活動が典型である。心理戦は古くから存在しており、ビラ、ラジオ放送、噂、宣伝映像、演説などを通じて行われてきた。心理戦の中心には、恐怖、不安、希望、忠誠、誇り、屈辱感などの感情への働きかけがある。
認知戦は心理戦を含むが、それよりも広い概念として理解できる。心理戦が主として感情や態度に働きかけるのに対し、認知戦は感情だけでなく、知覚、注意、記憶、推論、価値判断、意思決定、社会的意味づけにまで働きかける。たとえば、恐怖をあおるだけなら心理戦である。しかし、その恐怖を通じて、人々が特定の情報源だけを信じるようになり、反対意見をすべて敵の工作と見なし、制度全体への信頼を失い、複雑な問題を単純な陰謀の物語で理解するようになれば、それは認知戦的な効果である。
言い換えれば、心理戦は「何を感じさせるか」に強く関わり、認知戦は「感じた結果、世界をどう理解し、どう判断するか」にまで関わる。現代の認知戦では、心理戦的な手法がSNS、生成AI、ターゲティング広告、動画編集、インフルエンサー、オンラインコミュニティと結びつき、より個人化され、より高速に拡散するようになっている。
認知戦とプロパガンダの違い
プロパガンダとは、特定の思想、政策、人物、国家、組織に対する支持や反対を形成するために、情報、象徴、物語、感情を計画的に用いる活動である。プロパガンダは必ずしも虚偽だけで構成されるわけではない。事実を選択的に提示し、都合のよい解釈を加え、反対する情報を排除し、繰り返しによって特定の見方を自然なものとして定着させることもある。歴史的には、国家、政党、軍、宗教団体、企業、運動団体などがプロパガンダを用いてきた。
認知戦とプロパガンダの違いは、焦点と範囲にある。プロパガンダは、特定のメッセージや物語を広める活動として理解されやすい。これに対し、認知戦は、メッセージの内容だけでなく、情報が流れる環境、受け手の認知バイアス、社会の分断、制度への信頼、意思決定のプロセス全体を対象にする。たとえば、ある国が自国に好意的なイメージを広める宣伝を行うなら、それはプロパガンダである。しかし、同時に相手国社会の内部対立を利用し、メディア不信を高め、選挙や専門家への信頼を損ない、異なる集団同士の対話を不可能にするなら、それは認知戦として理解する必要がある。
偽情報、誤情報、マルインフォメーションの違い
認知戦を理解するうえで、偽情報、誤情報、マルインフォメーションの違いを整理しておく必要がある。誤情報、すなわちミスインフォメーションとは、誤った情報や不正確な情報が、必ずしも悪意なく広がることである。たとえば、災害時に古い写真を現在のものと勘違いして共有する、統計を読み間違える、誰かの発言を誤解して伝える場合がこれにあたる。意図的に人を騙そうとしているとは限らないが、結果として混乱や不信を生むことがある。
偽情報、すなわちディスインフォメーションとは、人を欺く意図を持って作成または拡散される虚偽または誤導的な情報である。完全な嘘だけではなく、半分だけ正しい情報、文脈を外した情報、重要な部分を省いた情報、誇張された情報も含まれる。誤情報と偽情報の違いは、主に意図にある。ただし、実際の情報環境では、最初は悪意なく共有された誤情報が、後に誰かによって意図的に利用され、偽情報キャンペーンの一部になることもある。
マルインフォメーションとは、事実そのものは本当であっても、文脈を外したり、意図的に公開したり、特定の人物や集団を傷つける目的で利用したりする情報である。たとえば、個人情報の暴露、発言の一部だけを切り取った拡散、過去の事実を現在の文脈に合わせて攻撃材料として提示する行為などが該当し得る。この概念は有用である一方で、注意も必要である。なぜなら、権力者や組織にとって不都合な真実まで「有害な情報」として扱えば、正当な告発や報道の自由を抑圧する危険があるからである。誤情報、偽情報、マルインフォメーションの区別は、CISAなどでも「MDM」として整理されてきたが、特にマルインフォメーションについては、真実の情報と表現の自由をどう扱うかという難しい問題を含む。
外国による情報操作・干渉、FIMIとは何か
近年、欧州では「外国による情報操作・干渉」を意味するFIMIという概念が重視されている。EUの対外活動庁であるEEASは、FIMIを、価値、手続き、政治過程に悪影響を及ぼす、または及ぼす可能性のある、主として違法とは限らない行動様式として説明している。そこでは、活動が操作的であり、意図的かつ組織的に行われ、国家主体だけでなく非国家主体や代理勢力も関与し得るとされている。
このFIMIという概念が重要なのは、問題を単なる「偽情報の中身」だけでなく、「誰が、どのような行動様式で、どのように情報環境へ介入しているか」という観点から捉える点である。たとえば、ある投稿が真実か虚偽かだけを見ても、認知戦の全体像は分からない。同じ主張が複数の匿名アカウント、影響力のある人物、外国語メディア、動画チャンネル、ボット、広告、外交的発信を通じて同時多発的に拡散されている場合、重要なのは個々の文章の真偽だけではない。そこに組織的な行動、目的、標的、拡散経路があるかどうかである。
EEASは、FIMIがEU内外の分極化や分断をあおり、EUの国際的立場や政策遂行能力を損なうことを狙う場合があると説明している。また同ページでは、EEASの監視と対応が特にロシアと中国に焦点を当てていることも明記されている。 この点は、日本にとっても重要である。日本の情報環境も、国内の政治的対立だけでなく、周辺国、国際政治、安全保障、経済依存、歴史認識、台湾情勢などと結びついているからである。
認知戦の主体──国家だけが行うものではない
認知戦の主体は、国家だけではない。国家機関、軍、情報機関、政党、外交機関、国営メディア、民間企業、政治団体、活動家ネットワーク、インフルエンサー、匿名アカウント群、ボットネット、生成AIを用いる個人や組織など、多様な主体が関与し得る。国家が直接発信する場合もあれば、代理勢力、友好的メディア、現地協力者、民間組織、オンラインコミュニティを通じて間接的に影響を与える場合もある。現代の認知戦では、発信主体を曖昧にすること自体が重要な手法となる。誰が発信しているのか分からなければ、受け手は情報の意図や背景を評価しにくくなるからである。
ただし、ここで注意すべきなのは、すべての偏った発信を認知戦と呼んではならないということである。政治家が自らの政策を訴えること、メディアが社説で立場を示すこと、市民が社会問題について意見を述べること、専門家が政策提言を行うことは、民主主義社会において正当な活動である。認知戦として問題になるのは、発信主体の偽装、組織的な拡散、意図的な歪曲、相手社会の分断を狙った操作、事実確認を困難にする大量投稿、恐怖や憎悪の計画的な利用などが組み合わさる場合である。
認知戦の目的──信じさせることだけが目的ではない
認知戦の目的は、特定の主張を信じさせることだけではない。むしろ、より深刻な目的は、人々に「何を信じればよいか分からない」と感じさせることである。情報が多すぎ、互いに矛盾し、どの専門家も信用できず、どのメディアも偏っており、政治家は全員嘘をついていると感じるようになれば、市民は判断を諦める。判断を諦めた社会では、投票率が下がり、公共的な議論が衰え、極端な主張が広がりやすくなる。これは認知戦を仕掛ける側にとって有利である。相手社会が自ら混乱し、内部で疑い合い、意思決定できなくなるからである。
もう一つの目的は、社会の分断を深めることである。既存の不満、格差、文化的対立、世代間対立、地域差、歴史認識、移民問題、安全保障上の不安などを利用し、異なる集団が互いを理解できない状態へ追い込む。認知戦は、必ずしも新しい対立をゼロから作る必要はない。すでに存在する小さな亀裂に情報と感情を流し込み、社会全体の裂け目へ拡大すればよいのである。
認知戦の対象──敵国民だけでなく、自国民も対象になり得る
認知戦の対象は、敵対国の国民、政策決定者、軍人、メディア関係者、専門家、企業、在外コミュニティ、国際世論など多岐にわたる。現代では、SNSを通じて国境を越えた情報拡散が容易になったため、特定の国民だけを対象にすることは難しい。英語、日本語、中国語、韓国語、ロシア語など複数の言語で同じナラティブが拡散され、国際世論と国内世論が相互に影響し合うこともある。
さらに重要なのは、認知戦の対象が敵だけとは限らないことである。国家や政治勢力は、自国民の不満を抑え、支持を固め、外部の敵を強調し、政策への疑問を封じるために、国内向けにも認知戦的な手法を用いることがある。つまり、認知戦は「外国から来るもの」とだけ考えるべきではない。国内政治、メディア環境、教育、企業広報、活動家運動、市民同士の言論空間の中でも、認知戦と類似した効果は生じ得る。
認知戦の手段──嘘よりも強いのは、文脈と感情である
認知戦の手段には、偽情報、誤情報の利用、切り取り、映像編集、統計の恣意的提示、陰謀論、噂、ハッシュタグ運動、ボットによる拡散、インフルエンサーの利用、ディープフェイク、生成AIによる大量投稿、検索結果やSNSトレンドの操作、外交発信、国営メディア、学術交流、文化交流、法律や国際規範を利用した言説戦、経済的圧力と情報発信の組み合わせなどがある。NATO ACTは、中国が認知戦を、世論、心理作戦、法律上の影響を用いるものとして説明していることにも触れている。
しかし、認知戦で最も危険なのは、明白な嘘だけではない。嘘は、検証されれば崩れる可能性がある。より厄介なのは、事実の一部だけを使い、文脈を変え、感情を刺激し、受け手が自分で結論に到達したように感じさせる方法である。たとえば、実際に存在する社会問題を取り上げながら、その原因を特定の集団の悪意にだけ帰属させる。実際の失言を切り取り、その人物の思想全体を極端なものとして描く。実在する犯罪を大きく扱い、統計的な全体像を示さずに特定集団への恐怖を高める。こうした操作は、完全な虚偽よりも見破りにくい。
人間の脳は情報をそのまま受け取らない
認知戦が効果を持つのは、人間の脳が情報をそのまま記録する機械ではないからである。私たちは、外界の情報を選択し、注意を向け、過去の経験と結びつけ、感情によって重要度を判断し、既存の信念に照らして意味づけている。つまり、人間は「世界を見ている」のではなく、「世界を解釈している」のである。この解釈の過程に、認知戦は入り込む。
脳は効率を重視する。すべての情報を一つひとつ検証していては、日常生活を送れない。そのため、私たちは直感、経験則、信頼する人物、所属集団の反応、過去の記憶、感情の強さを手がかりにして判断する。この仕組みは生存に役立つ一方で、操作されやすい弱点にもなる。強い怒りや恐怖を引き起こす情報は、冷静な統計よりも記憶に残りやすい。自分の信じている世界観に合う情報は、反対の情報よりも受け入れやすい。多くの人が共有している情報は、根拠が弱くても正しそうに見える。これらは、人間が愚かだからではなく、脳が限られた資源で素早く判断するようにできているからである。
認知バイアスとは何か
認知バイアスとは、人間の判断が一定の方向へ偏る傾向である。認知バイアスは、単なる欠点ではない。複雑な世界を素早く理解するための省エネ機能でもある。問題は、その省エネ機能が、政治的宣伝、広告、メディア演出、SNSの炎上、外国からの情報操作によって利用されることである。
代表的な認知バイアスの一つが、確証バイアスである。これは、自分の考えに合う情報を重視し、それに反する情報を軽視する傾向である。たとえば、あるメディアを「偏っている」と思っている人は、そのメディアが誤った報道をしたときには強く記憶するが、正確な報道をしたときにはあまり注目しない。反対に、自分が信頼するメディアの誤報には寛容になりやすい。認知戦では、この確証バイアスを利用し、各集団にそれぞれ都合のよい情報を与えることで、社会の分断を深める。
もう一つ重要なのが、利用可能性ヒューリスティックである。これは、思い出しやすい事例ほど頻繁に起きている、重要である、危険であると判断しやすい傾向である。印象的な事件映像を繰り返し見ると、それが統計的には稀な出来事であっても、社会全体で急増しているように感じることがある。さらに、権威バイアスも重要である。専門家、大学教授、元官僚、医師、軍事専門家、著名ジャーナリストなどの肩書があると、私たちは発言内容を十分に検証する前に信頼しやすい。もちろん専門知は重要であるが、肩書は真実そのものではない。
認知バイアスを知った人が陥る罠
認知バイアスについて学ぶと、他人の誤りがよく見えるようになる。しかし、そこで満足すると危険である。なぜなら、人間には「自分は他人より客観的である」と思い込む傾向があるからである。認知バイアスの知識を得た人が、自分と異なる意見を持つ人に対して「彼らは確証バイアスに支配されている」「彼らはメディアに操作されている」と決めつけ、自分の判断は中立であると考えるなら、その人自身も認知戦に対して脆弱である。
認知戦に対する最大の弱点は、「自分だけは操作されない」という確信である。この確信を持つ人ほど、自分の信念に合う情報を疑わず、反対意見を認知戦として片づけ、所属集団の誤りを見逃す。認知バイアスの理解は、他人を見下すためではなく、自分自身の判断を点検するために使わなければならない。
ストローマン論法の基本構造
ストローマン論法とは、相手の実際の主張を正確に扱わず、単純化、誇張、歪曲した別の主張へ置き換え、その弱くされた主張を攻撃する論法である。日本語では「藁人形論法」とも呼ばれる。たとえば、ある人が「この政策には副作用があるため、慎重に制度設計すべきだ」と述べたとする。それに対して、「この人は困っている人を助けるなと言っている」と批判するなら、それは相手の主張を別のものに置き換えている可能性がある。
ストローマン論法は、認知戦や世論操作と非常に相性がよい。なぜなら、複雑な主張を正確に扱うよりも、極端で愚かな主張に見せかけたほうが、怒りを集めやすく、拡散されやすいからである。政治家、メディア、知識人、SNSユーザーは、相手の最も弱い解釈を取り上げ、それを相手全体の思想であるかのように扱うことがある。これにより、対話は失われる。人々は相手の実際の主張ではなく、自分の陣営が作り上げた「敵のイメージ」を攻撃するようになる。
ストローマン論法を見破るためには、少なくとも三つの問いが必要である。第一に、相手は本当にその主張をしたのか。第二に、その発言は前後の文脈を含めて確認したのか。第三に、相手本人が「自分の主張はそのような意味ではない」と言った場合、それを修正する用意があるか。認知戦に強い社会とは、相手を批判しない社会ではない。相手の主張を正確に理解したうえで批判できる社会である。
認知戦と正当な批判・説得を区別する基準
ここで極めて重要な点を確認しなければならない。認知戦という言葉を知ると、自分にとって不快な意見、反対意見、不都合な報道、耳の痛い批判をすべて「認知戦」と呼びたくなる誘惑が生じる。しかし、それは危険である。民主主義社会では、政府、企業、メディア、専門家、政治家、市民運動に対する批判は不可欠である。強い批判、不快な意見、少数派の見解、既存の常識への疑問を、安易に認知戦や偽情報として排除すれば、認知戦対策が言論統制へ変質する。
認知戦と正当な批判・説得を区別するためには、いくつかの基準が必要である。第一に、発信主体が透明かどうかである。誰が、どの立場で、どの利益を持って発信しているのかが明らかであれば、受け手は情報を評価しやすい。第二に、根拠が検証可能かどうかである。一次資料、統計、発言全文、反対証拠への言及があるかどうかは重要である。第三に、相手の主張を正確に扱っているかどうかである。ストローマン論法、切り取り、人格攻撃、陰謀論的な断定が多い場合、認知操作の可能性は高まる。第四に、誤りが判明したときに訂正する仕組みがあるかどうかである。正当な批判は、証拠によって修正され得る。認知戦的な言説は、反証されても別の疑惑を生み出し続ける傾向がある。
第五に、社会の分断や不信を煽ること自体が目的化していないかである。正当な批判は、問題を明らかにし、改善へ向かう道筋を示す。これに対して認知戦的な言説は、「誰も信じるな」「制度はすべて腐敗している」「相手は悪そのものだ」という方向へ人々を導きやすい。もちろん、制度への不信には正当な理由がある場合もある。しかし、すべてを疑わせ、何も改善できない状態へ追い込む言説には注意が必要である。
中国、ロシア、欧米、日本をめぐる視点
本連載では、今後、中国、ロシア、欧米、アジア、日本の事例も扱う。特に中国については、台湾への認知戦、国際社会に対するナラティブ形成、統一戦線工作、法律戦・世論戦・心理戦といった概念、日本の世論や安全保障環境への影響を検討する予定である。ただし、中国政府、中国共産党、軍、関係機関などによる活動と、中国人一般、中国社会、中国文化は明確に区別しなければならない。国家や組織の活動を批判することと、民族や国籍に基づく偏見を広げることはまったく異なる。認知戦への警戒が差別や排外主義へ転化すれば、それ自体が社会分断を深める認知戦的効果を持ってしまう。
ロシアについては、ウクライナ侵攻をめぐる国際世論への働きかけ、欧米社会の分断を利用する情報操作、選挙干渉疑惑などが重要な事例となる。欧米については、外国からの干渉だけでなく、国内政治の分極化、SNSプラットフォーム、メディア不信、政府による偽情報対策と言論の自由の緊張関係も扱う。日本については、国外からの情報操作に加え、国内の切り取り報道、同調圧力、空気、権威への依存、政治的ラベリング、専門家への過剰な依存または過剰な不信を検討する。日本の防衛省も「認知領域を含む情報戦への対応」を掲げ、情報戦への対応を安全保障上の課題として示している。
認知戦に対する最初の防御は、反射しないことである
認知戦への第一の防御は、特殊な知識や高度な情報分析技術ではない。まず、反射しないことである。強い怒りを感じた投稿、恐怖を刺激する動画、誰かを嘲笑したくなる切り抜き、支持する陣営に都合のよいニュースに接したとき、すぐに共有しない。すぐに信じない。すぐに否定しない。まず立ち止まり、「この情報は誰が発信しているのか」「元の資料は何か」「前後の文脈は何か」「私はなぜこれを信じたいのか」「反対証拠はあるのか」と問うことである。
これは消極的な態度ではない。むしろ、情報環境が過剰に感情化された時代における、最も能動的な知性の使い方である。認知戦は、人々を考えさせないことによって成功する。怒らせ、怖がらせ、嘲笑させ、味方と敵に分け、即座に反応させることで成功する。したがって、立ち止まって考えることは、それ自体が認知戦への抵抗なのである。
今回のまとめ
認知戦とは、人間の知覚、感情、記憶、判断、意思決定に働きかけ、特定の主体に有利な認識や行動を生み出そうとする活動である。情報戦が情報の流れをめぐる戦いであり、心理戦が感情や士気への働きかけを中心とするのに対し、認知戦は人間が世界をどのように理解し、何を信じ、どのように判断するかにまで関わる。プロパガンダ、偽情報、誤情報、マルインフォメーション、FIMIは、認知戦を理解するうえで重要な関連概念であるが、それぞれを混同してはならない。
また、認知戦は国家だけが行うものではなく、政治家、メディア、知識人、企業、活動家、インフルエンサー、市民自身も、意図的または無自覚に認知戦的な情報環境を形成する場合がある。人間の脳は情報をそのまま受け取るのではなく、認知バイアスを通じて選択し、意味づけ、判断している。ストローマン論法は、相手の主張を歪めることによって対話を破壊し、社会の分断を深める。認知戦に対抗する第一歩は、自分が操作されない特別な存在だと思わないことである。むしろ、自分もまた認知バイアスを持ち、感情に動かされ、所属集団の物語に影響される人間であると認めることから、認知防衛は始まる。
次回予告
次回は、「認知バイアスはなぜ人を動かすのか──感情・反復・物語による情報操作」をテーマに、恐怖、怒り、嫌悪が判断へ与える影響、同じ情報を繰り返し見ると真実らしく感じる仕組み、フレーミング、アジェンダ設定、ナラティブの力について詳しく扱う。善意、正義感、被害者意識、帰属意識がどのように情報操作に利用されるのかも考察する。
連載総合案内
本連載全体の構成は、以下の記事にまとめている。
認知戦・認知バイアス・ストローマン論法──メディア、政治家、知識人が社会に及ぼす影響と対策【全7回・総合案内】
参考文献・関連資料
European External Action Service. (2026). Information integrity and countering foreign information manipulation and interference (FIMI).
Kahneman, D. (2011). Thinking, fast and slow. Farrar, Straus and Giroux.
カーネマン,D.(村井章子訳)(2012)『ファスト&スロー――あなたの意思はどのように決まるか?』早川書房.
Mercier, H., & Sperber, D. (2017). The enigma of reason. Harvard University Press.
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Rushing, B., Hersch, W., & Xu, S. (2026). Cognitive warfare: Definition, framework, and case study.
Tversky, A., & Kahneman, D. (1974). Judgment under uncertainty: Heuristics and biases. Science, 185(4157), 1124–1131.
防衛省「認知領域を含む情報戦への対応」