般若心経と不安・怒り・悲しみ・喪失──感情を否定せず心を整える方法

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般若心経と不安・怒り・悲しみ・喪失──感情を否定せず心を整える方法

本記事は、全12回シリーズ「般若心経とメンタルヘルス──『空』『無所得』『心無罣礙』から学ぶ、苦しみに囚われない心のつくり方」の第9回である。

ここまで私たちは、

観自在。

五蘊。

空。

色即是空・空即是色。

心無罣礙。

無有恐怖。

遠離一切顛倒夢想。

無所得。

という言葉をたどってきた。

第8回では、「無所得」を、

何も求めない。

何も得ない。

努力しない。

という消極的な人生論としてではなく、

目標を持ちながら、その結果だけに自分の価値を全面的に預けない心のあり方

として考えた。

では、般若心経の思想を実際の感情へ下ろしたとき、どうなるのだろうか。

不安。

怒り。

悲しみ。

孤独。

喪失。

私たちが人生の中で避けることのできない感情である。

ここで、非常に危険な誤解がある。

「すべては空なのだから、不安になる必要はない」

「怒りは執着なのだから捨てればよい」

「大切な人を失っても、無常なのだから悲しんではいけない」

そのように般若心経を使うことである。

本シリーズは、その読み方を取らない。

悲しいときには悲しい。

怖いときには怖い。

怒りが生じることもある。

寂しいときには寂しい。

愛する人を失えば、その喪失は痛い。

それは、人間として自然なことである。

般若心経は、人間から感情を取り除くための経典ではない。

本シリーズが問い続けているのは、

感情をなくすことではなく、感情があっても、その感情だけに自分の人生すべてを支配されずに生きることはできるのか

という問題である。

今回は、その問いを不安、怒り、悲しみ、孤独、喪失、グリーフ、そして死への恐怖から考えていく。

第35章 不安──未来を握りしめようとする心

不安は、未来と深く関係している。

「もし失敗したら」

「もし病気になったら」

「もし仕事を失ったら」

「もしお金が足りなくなったら」

「もし家族に何かあったら」

「もし一人になったら」

まだ起きていない。

しかし、心の中ではすでに起きている。

第6回で考えたように、人間には未来を予測する能力がある。

この能力があるから、私たちは計画できる。

危険に備えることができる。

貯蓄する。

健康診断を受ける。

仕事の準備をする。

災害に備える。

未来を考えること自体は重要である。

しかし、不安が強くなると、

未来を予測すること

から、

未来を完全に支配しようとすること

へ変わる場合がある。

「分からない」をなくしたい心

人間にとって、

「分からない」

という状態は不快である。

検査結果がどうなるか分からない。

採用されるか分からない。

相手が自分をどう思っているか分からない。

会社が今後どうなるか分からない。

将来、健康でいられるか分からない。

すると心は、答えを求める。

何度も調べる。

何度も確認する。

何度も人に尋ねる。

将来のシナリオを頭の中で繰り返す。

一時的に安心しても、すぐに、

「でも、もし……」

が始まる。

ここで苦しいのは、未来の危険だけではない。

未来が分からないという状態そのもの

にも苦しんでいる。

「未来を握る」という不可能な仕事

第8回では、結果を完全に所有しようとしないということを考えた。

不安にも同じ構造がある。

人は未来を知りたい。

安全であると保証されたい。

しかし、未来のすべてを握ることはできない。

どれほど準備しても、予想外のことは起きる。

これは無責任に、

「どうにかなる」

と言うことではない。

必要な準備はする。

必要な保険に入る。

医療を受ける。

情報を集める。

計画する。

そのうえで、

自分ができる準備と、完全には支配できない未来を区別する

のである。

不安を消してから生きようとしない

「不安がなくなれば行動できる」

と思うことがある。

しかし、新しいことを始めるときには不安がある。

転職。

独立。

結婚。

移住。

治療。

人間関係。

何か大切なことを始めるとき、結果はまだ分からない。

完全に不安が消えるまで待つなら、人生そのものが始まらなくなることがある。

だから問いを、

「どうしたら不安をゼロにできるか」

から、

「不安がありながら、今日できることは何か」

へ変える。

般若心経の「心無罣礙」「無有恐怖」を生活へ下ろすとき、ここに一つの重要な意味がある。

不安がなくなったから進むのではない。

不安がありながらも、一歩を選ぶ。

第36章 怒り──「こうあるべき」に囚われる心

怒りも、人間にとって自然な感情である。

約束を破られた。

不当に扱われた。

侮辱された。

裏切られた。

理不尽なことが起きた。

そうしたときに怒りが生じる。

だから、

「怒りは悪い感情である」

と単純に考える必要はない。

怒りは、

「何か大切なものが侵害された」

という信号になることもある。

自分の尊厳。

公平さ。

安全。

家族。

信頼。

大切な価値。

それらが傷つけられたとき、人は怒る。

怒りの奥にある「こうあるべき」

一方で、怒りをよく観察すると、

「こうあるべきだった」

という思いが見えることがある。

「相手は約束を守るべきだった」

「上司は公平であるべきだ」

「家族なら理解してくれるべきだ」

「自分はこんな扱いを受けるべきではない」

「こんな出来事は起きるべきではなかった」

その「べき」が現実と衝突したとき、怒りが生まれる。

もちろん、

「約束は守らなくてもよい」

「不公平も受け入れればよい」

という話ではない。

守るべき原則はある。

不正には抵抗する必要がある。

暴力や虐待からは離れる必要がある。

問題は、

すでに起きてしまった現実に対して、「絶対に起きてはならなかった」と心の中で戦い続けることで、怒りが繰り返し再生される場合がある

ということである。

怒りと行動を分ける

腹が立つ。

その瞬間にメールを送る。

言い返す。

関係を切る。

SNSに書き込む。

すると後で、

「少し待てばよかった」

と思うことがある。

ここで第2回の「観る」という視点が再び重要になる。

「私は怒っている」

から、

「いま、強い怒りが生じている」

へ。

胸が熱い。

身体に力が入っている。

「許せない」という考えがある。

言い返したい衝動がある。

それを観る。

怒りを否定しない。

しかし、

怒りが生じていることと、怒りの命令どおりに行動することを分ける。

このわずかな間に、選択肢が生まれる。

今すぐ伝える。

少し待って伝える。

第三者に相談する。

距離を取る。

正式な手続きを使う。

何もしない。

行動は選べる。

「手放す」は、不正を許すことではない

「怒りを手放す」と聞くと、

相手を許さなければならない。

忘れなければならない。

なかったことにしなければならない。

と感じる人もいる。

しかし、それも違う。

許せないことがあってもよい。

距離を取ることもある。

関係を終えることもある。

法的・組織的な対応が必要な場合もある。

手放すとは、

相手のしたことを正当化することではなく、その出来事だけに自分の心と人生のすべてを占領され続けないこと

として考えることができる。

怒りは残るかもしれない。

しかし、怒りだけが自分ではない。

ここでも「五蘊皆空」の視点が戻ってくる。

第37章 悲しみ──「空」は悲しみを否定しない

今回、もっとも大切な章である。

悲しみについて考える。

人は何かを失うと悲しむ。

人を失う。

健康を失う。

仕事を失う。

関係を失う。

故郷を失う。

役割を失う。

若さを失う。

夢を失う。

悲しみは、

大切だったものが失われたことへの自然な反応

でもある。

ここで、般若心経を非常に危険な形で使うことができてしまう。

「すべては空だ」

「すべては無常だ」

「執着するから苦しい」

「だから悲しむ必要はない」

本シリーズは、この読み方を明確に否定する。

愛していたから、悲しい

大切な人を失った。

悲しい。

それは、

仏教を理解していないからではない。

執着を捨てられない未熟な人間だからでもない。

愛していたから悲しいのである。

一緒にいた時間があった。

声を知っている。

表情を知っている。

思い出がある。

人生の一部をともに生きた。

その人がいなくなった。

だから世界の形が変わる。

悲しみが生じる。

それを、

「空だから悲しむな」

と切り捨ててしまえば、「空」という言葉が、人の苦しみから逃げるための道具になってしまう。

「空」は大切だったことまで否定しない

「すべては空である」

というと、

「では、その人との関係も本当は存在しなかったのか」

と思うかもしれない。

そうではない。

第3回・第4回で考えたように、

空は単純な「無」ではない。

関係は存在した。

愛情も存在した。

一緒に過ごした時間も存在した。

その意味は消えない。

しかし、その関係の形は変化する。

生きている二人として会うことはできなくなったとしても、

その人から受け取ったもの。

一緒に生きた記憶。

価値観。

言葉。

人生への影響。

そうしたものが、残された人の中に存在し続けることがある。

「空」は、

関係がなかったという思想ではなく、関係の形が固定されていないことを見る思想

として読むこともできる。

悲しみは「治すべき異常」とは限らない

悲しいとき、

「早く元気にならなければ」

「いつまで悲しんでいるのだろう」

「前へ進まなければ」

と思うことがある。

周囲から、

「もう時間がたったから」

「元気を出して」

「前を向いて」

と言われることもある。

もちろん、支えてくれる善意から出る言葉である場合も多い。

しかし、悲しみには、その人なりの時間がある。

感情は、予定表どおりには動かない。

昨日は落ち着いていたのに、今日は強く悲しい。

何年もたった後、音楽や場所、匂い、一枚の写真によって突然涙が出ることもある。

それは、

「回復が振り出しに戻った」

と単純に考える必要はない。

人間の記憶と愛情は、一直線には動かないからである。

元に戻ることだけが回復ではない

喪失の前の自分へ戻りたい。

そう思うことがある。

しかし、大きな喪失の後には、

以前とまったく同じ自分に戻ることができない場合もある。

世界の見え方が変わる。

価値観が変わる。

人との関係が変わる。

人生の優先順位が変わる。

だから、回復を、

「喪失する前と同じ状態になること」

だけで考えない方がよい場合がある。

悲しみをなくして元に戻るのではなく、

悲しみを含んだ新しい自分として、生き方をつくり直していく。

それも一つの回復である。

悲しみを抱えて生きる

悲しみとともに生きることは、

毎日泣き続けることではない。

悲しい日もある。

笑える日もある。

仕事をする。

食事をする。

人と話す。

旅行へ行く。

新しい人に出会う。

そして突然、また悲しくなる。

悲しみがありながら喜ぶことは、亡くなった人を裏切ることではない。

新しい人生を歩くことも、忘れることではない。

悲しみを抱えて生きるとは、

失った人やものを心から消すことではなく、その喪失を人生の中に置く場所を少しずつ見つけていくこと

と考えることができる。

第38章 孤独と喪失──人とのつながりを「空」から考える

喪失は、悲しみだけでなく孤独を生む。

「もう、この人はいない」

という事実は、

世界の中の一つの存在が消えた、

というだけではない。

その人との関係の中にあった「自分」も変化する。

夫婦であれば、

「夫である自分」

「妻である自分」

のあり方が変わる。

親を失えば、

「子どもとしての自分」

の感覚も変化する。

仕事を失えば、

同僚との関係。

役割。

日常のリズム。

社会との接点。

それらまで失われることがある。

喪失は、一つの対象を失うだけではない。

その対象との関係の中で存在していた自分の一部まで揺さぶる。

人間は関係の中で生きている

「空」を、

物事は独立して固定的に存在しているわけではなく、さまざまな条件や関係の中で成り立っている、

という方向から読むなら、人間も孤立した存在ではない。

私たちは人との関係の中で生きている。

名前を呼ばれる。

話を聞いてもらう。

誰かを心配する。

心配される。

仕事を任される。

食卓を囲む。

笑う。

喧嘩する。

謝る。

そうした関係の中で、「自分」という感覚もつくられている。

だから、人を失うことは大きい。

「執着しすぎだから苦しい」

という一言で説明できるものではない。

関係の中で生きていた人間が、その関係の大きな変化に直面しているから苦しいのである。

孤独と「一人」は同じではない

一人でいても孤独ではないことがある。

大勢の中にいても孤独なことがある。

孤独とは、単なる人数の問題ではない。

「自分が誰ともつながっていない」

「自分のことを本当に分かってくれる人はいない」

と感じることがある。

その苦しみを、

「空だから一人でも平気でいなければならない」

とは考えない。

人とのつながりを必要とすることは、人間として自然である。

助けを求めてよい。

話を聞いてもらってよい。

新しい関係をつくってよい。

逆に、一人で静かに過ごす時間が必要なこともある。

重要なのは、

「自立」と「孤立」を同じにしないこと

である。

失った関係は、ゼロになるのか

死別を考えるとき、とても難しい問題がある。

相手はもう目の前にはいない。

以前と同じ関係は続かない。

しかし、だからといって、その関係が完全に「ゼロ」になるのだろうか。

一緒に過ごした経験がある。

教えられたことがある。

言われた言葉がある。

人生の選択に影響している。

今でも、

「あの人ならどう考えるだろう」

と思うことがあるかもしれない。

それを、

「まだ執着しているから忘れられない」

とだけ見る必要はない。

人との関係は、その人が目の前にいるときだけに存在するとは限らない。

記憶や価値観、人生への影響という別の形へ変化することもある。

ここにも、

関係は固定された一つの形ではない

という「空」の視点を置くことができる。

第39章 グリーフと死への恐怖──「不生不滅」「無老死」をどう読むか

般若心経には、

不生不滅

という言葉がある。

また、

無老死 亦無老死尽

とも説く。

これを文字どおり、

「人間は本当は生まれない」

「人間は死なない」

「老いも死も存在しない」

と理解すれば、現実と大きく離れてしまう。

人は生まれる。

老いる。

病気になる。

死ぬ。

般若心経が、この生物学的事実を否定していると読むべきではない。

「不生不滅」「無老死」は、般若思想の「空」という文脈の中で理解する必要がある。

「死は存在しない」と言ってはいけない

大切な人を亡くした人に、

「般若心経では不生不滅だから、死は存在しません」

と言ったとしても、その人の悲しみを支えることにはならないだろう。

むしろ、

目の前から本当にいなくなったという現実。

声を聞けないこと。

触れられないこと。

一緒に食事をできないこと。

その現実を否定されたように感じるかもしれない。

本シリーズでは、そのような使い方をしない。

死は現実の喪失である。

悲しみも現実である。

その事実を認めたうえで、

人間や関係を、単純に「存在する/存在しない」の二つだけで捉えなくてもよいのではないか

という問いを置く。

「不生不滅」を生命の永続の科学的主張にしない

「不生不滅」を、

死後も人格が科学的に存続することの証明、

として扱うこともできない。

それは科学的証拠の問題とは別である。

本シリーズでは、仏教思想と科学的エビデンスを区別する。

ここで考えているのは、

般若思想において、固定された独立的実体としての生滅をどう見るのか

という思想上の問題である。

したがって、

「般若心経によって死後の世界が科学的に証明される」

という主張はしない。

大切な人を忘れることと、執着から自由になることは違う

ここが、第9回の最も重要な点の一つである。

「執着を手放す」

という言葉から、

亡くなった人を忘れなければならない。

思い出してはいけない。

悲しんではいけない。

写真を大切にしてはいけない。

命日を覚えていてはいけない。

そのように考える必要はない。

忘れることが、非執着なのではない。

大切な人を覚えていてよい。

思い出してよい。

涙を流してよい。

その人が人生の中で持っていた意味を、大切にしてよい。

では、何から自由になるのか。

一つの考え方として、

「以前とまったく同じ関係に戻らなければ、自分は生きていけない」

「自分だけが生き続けることは許されない」

「笑ったら裏切りだ」

「新しい喜びを感じたら忘れたことになる」

という形で、現在の人生まで完全に閉ざしてしまう苦しみから、少しずつ自由になることである。

亡くなった人を手放すのではない。

「この一つの形でなければ関係ではない」という固定された形を、少しずつ緩めていく。

そのように考えることができる。

グリーフは「卒業」するものなのか

大きな喪失の悲しみについて、

「いつ終わるのか」

という問いがある。

しかし、すべての悲しみが完全に消えて、過去の出来事になるとは限らない。

形が変わることはある。

強さが変わる。

頻度が変わる。

悲しみだけだった記憶の中に、感謝や懐かしさが混じることもある。

それでも、特定の日には深く悲しくなる。

それでよい。

グリーフから「卒業」しなければならない、と一律に考える必要はない。

人生の中で喪失の意味が変化していく。

その変化を生きる。

第4回で扱った、

空即是色──固定されていないからこそ、形が変わっていく

という視点を、ここにも置くことができる。

死への恐怖を消すことはできるのか

自分自身の死が怖い。

それも自然である。

死んだ後、どうなるのか。

いつ死ぬのか。

苦しいのか。

大切な人と別れることになるのか。

人間は、その答えを完全には持っていない。

だから怖い。

般若心経を読めば、この恐怖が完全になくなると約束することはできない。

しかし、

死が存在することを知りながら、

今日をどう生きるか

という方向へ問いを戻すことはできる。

死を意識するからこそ、

今日会える人を大切にする。

伝えたい言葉を伝える。

やりたいことを先延ばしにしすぎない。

自分にとって本当に大切なものを考える。

「死を忘れること」によって生きるのではなく、

死がある人生を、それでも生きる。

そこに、「無有恐怖」をもう一度読み直す入口がある。

感情を「消す対象」にしない

ここまで、不安、怒り、悲しみ、孤独、喪失を見てきた。

共通していることがある。

それは、

感情を敵にしない

ということである。

不安がある。

「不安になってはいけない」

と考える。

すると、

不安+「不安な自分はダメだ」

という苦しみが生まれる。

怒りがある。

「怒る自分は未熟だ」

と思う。

すると、

怒り+自己否定

になる。

悲しい。

「いつまでも悲しんではいけない」

と思う。

すると、

悲しみ+焦り+罪悪感

になる。

もともとの感情に、二つ目の苦しみが加わる。

だから、

「いま不安なのだ」

「いま怒っている」

「いま悲しい」

と、まず認める。

そして、

「この感情がある今、自分は何を必要としているのか」

を考える。

休息。

人との会話。

距離。

医療。

相談。

時間。

沈黙。

行動。

人によって違う。

般若心経を、感情を抑圧するために使ってはならない。

今回の小さな実践──感情に名前をつけ、その奥を見る

今回の実践として、一つだけ現在の感情を選んでみたい。

不安。

怒り。

悲しみ。

孤独。

まず、

「いま私は何を感じているか」

と確認する。

次に、

「この感情の奥で、私は何を大切にしているのか」

と問う。

不安なら、

安全。

家族。

仕事。

健康。

未来。

何かを大切にしているのかもしれない。

怒りなら、

公平。

尊厳。

信頼。

約束。

何かが傷つけられたと感じているのかもしれない。

悲しみなら、

愛していた人。

失った関係。

大切だった時間。

何かの価値がそこにある。

すると感情は、

「消すべき邪魔なもの」

だけではなく、

自分が何を大切にしているのかを知らせるもの

として見える場合がある。

最後に、

「この感情をなくさなくても、今日できる小さなことは何か」

と考える。

答えがなくてもよい。

ただ観る。

それだけでもよい。

喪失の中にいる人に、言わない方がよいこと

般若心経や仏教思想をメンタルヘルスに用いるとき、とりわけ喪失の場面では慎重さが必要である。

例えば、

「すべては無常です」

「執着を捨てれば楽になります」

「いつまでも悲しんではいけません」

「亡くなった人も本当は存在していません」

「空なのだから手放しましょう」

そのような言葉は、理論的な説明として意図したとしても、悲嘆の中にいる人には、

「あなたの悲しみは間違っている」

というメッセージとして届く可能性がある。

大切なのは、正しい思想を教えることより前に、

その人の悲しみがそこにあることを認めることである。

話したければ話す。

話したくなければ、無理に話さない。

泣いているなら、その涙を急いで止めようとしない。

般若心経の智慧を用いるとしても、

苦しみを説明して消すためではなく、苦しみを抱えている人が自分のペースで生きられる余地を広げるため

でなければならない。

般若心経は医療や心理支援の代わりではない

悲しみ、喪失、グリーフは、人間として自然な経験である。

一方で、強い抑うつ状態、自殺念慮、重度の不安、PTSD、解離症状、精神病症状などがある場合には、宗教的・哲学的な実践だけで解決しようとしてはならない。

精神科・心療内科などの医療機関や、適切な心理専門職による支援が必要になる場合がある。

また、

眠れない状態が長く続く。

食事がほとんど取れない。

日常生活が著しく困難になっている。

自分を傷つけたい気持ちがある。

そのような場合にも、専門的支援を求めることが重要である。

これは般若心経の価値を否定することではない。

宗教。

哲学。

心理学。

医学。

それぞれの役割を尊重することである。

第9回のまとめ

第9回では、

不安。

怒り。

悲しみ。

孤独。

喪失。

グリーフ。

死への恐怖。

という、人間の根源的な感情を般若心経から考えた。

不安は、未来を完全に握りしめようとするとき大きくなることがある。

だから、

未来を考えないのではなく、

自分にできる準備と、完全には支配できない未来を分ける。

怒りには、

「こうあるべきだった」

という思いが関係することがある。

だから、

怒りを消すのではなく、

怒りが何を守ろうとしているのかを観ながら、行動は自分で選ぶ。

悲しみについては、もっとも重要なことを確認した。

「空」は悲しみを否定しない。

愛していたから悲しい。

大切だったから、失うことは痛い。

その悲しみを、

「執着だから捨てろ」

とは言わない。

孤独と喪失については、人間が関係の中で生きている存在であることを考えた。

そしてグリーフについて、

大切な人を忘れることと、執着から自由になることは同じではない

ことを確認した。

亡くなった人を覚えていてよい。

思い出してよい。

悲しんでよい。

その人との関係が、自分の人生の中で別の形へ変化していくこともある。

「不生不滅」「無老死」も、

死が存在しない、

人間は死なない、

という生物学的主張として読むべきではない。

人は生まれ、老い、死ぬ。

その現実を否定したうえで般若心経を使ってはならない。

本シリーズを貫いているのは、

苦しみそのものをなくすことではない。

悲しみはある。

恐怖もある。

喪失もある。

それでも、

その苦しみだけに人生のすべてを支配されない心を探す。

その問いである。

そして次回から、少し方向が変わる。

これまで私たちは、般若心経の「意味」を中心に読んできた。

第10回では、

般若心経を実際に「唱える」とき、心と身体では何が起きているのか

を考える。

次回予告

第10回 般若心経の読経とメンタルヘルス──呼吸・瞑想・脳科学から効果を検証する

般若心経を唱える。

声を出す。

呼吸する。

一定のリズムを刻む。

言葉へ注意を向ける。

そのとき、心と身体では何が起きているのだろうか。

第10回では、

発声。

リズム。

呼吸。

注意。

自律神経。

瞑想。

マインドワンダリング。

EEG。

脳画像研究。

などを手掛かりに、読経とメンタルヘルスの関係を考える。

ただし、ここでは特に、

「科学で説明できること」と「まだ説明できないこと」

を明確に区別する。

瞑想や呼吸、読経一般について研究があることと、

「般若心経そのものに医学的治療効果が証明されている」

ことは同じではない。

般若心経固有の研究と、瞑想・発声・呼吸・読経一般の研究を区別しながら、欧米・アジア(中国除く)・日本の研究事例も比較していく。

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「般若心経とメンタルヘルス──『空』『無所得』『心無罣礙』から学ぶ、苦しみに囚われない心のつくり方【全12回・総合案内】」

参考文献・関連資料

般若心経・仏教思想

中村元・紀野一義(訳註)(1982)『般若心経・金剛般若経』岩波書店(岩波文庫)。

般若心経の「空」「不生不滅」「無老死」「無所得」「心無罣礙」「無有恐怖」などの主要な語句を確認するための基本文献である。

佐々木閑(2014)『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』NHK出版。

般若心経の成立背景、大乗仏教における位置づけ、「空」などの思想を一般読者が理解する際の参考資料である。

Thich Nhat Hanh. (2017). The other shore: A new translation of the Heart Sutra with commentaries. Parallax Press.

ティク・ナット・ハンによる般若心経の現代的英訳と解説である。「空」を虚無としてではなく、関係性や相互依存の中で存在を見る視点として考える際の参考となる。

84000: Translating the Words of the Buddha. The Heart of the Perfection of Wisdom, the Blessed Mother.

般若心経の英訳、序説、注釈、用語集を収録する学術的オンライン資料である。

マインドフルネス・心理療法

Kabat-Zinn, J. (2013). Full catastrophe living: Using the wisdom of your body and mind to face stress, pain, and illness (Rev. ed.). Bantam Books.

自分の意思だけでは取り除くことのできないストレス、痛み、病気などの経験との関係を考える際の代表的文献である。ただし、本稿ではMBSRと般若心経を同一視していない。

Segal, Z. V., Williams, J. M. G., & Teasdale, J. D. (2012). Mindfulness-based cognitive therapy for depression (2nd ed.). Guilford Press.

思考や感情を、自分自身そのものと同一視せずに観察する脱中心化を理解する際の参考資料である。

Hayes, S. C., Strosahl, K. D., & Wilson, K. G. (2011). Acceptance and commitment therapy: The process and practice of mindful change (2nd ed.). Guilford Press.

不安や悲しみなどの心理的経験を完全に排除してから生きるのではなく、それらが存在しながらも、自分にとって大切な方向へ行動するという観点を理解する際の参考となる。

※本稿では、般若心経の「空」「不生不滅」「無老死」を、悲しみや死そのものを否定する言葉として扱っていない。また、これらを死後の人格的存在や生命の永続を科学的に証明する言葉としても扱っていない。

さらに、「執着から自由になること」を、亡くなった人を忘れること、愛情を消すこと、思い出を捨てることと同一視していない。

本シリーズの立場は一貫している。

悲しいときには悲しい。
怖いときには怖い。
寂しいときには寂しい。

その感情を否定するのではなく、

その感情だけに、自分の人生のすべてを支配されない心のあり方を探す。

そこに、般若心経と現代のメンタルヘルスを対話させる意味がある。

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投稿者プロフィール

市村 修一
市村 修一
【略 歴】
茨城県生まれ。
明治大学政治経済学部卒業。日米欧の企業、主に外資系企業でCFO、代表取締役社長を経験し、経営全般、経営戦略策定、人事、組織開発に深く関わる。その経験を活かし、激動の時代に卓越した人財の育成、組織開発の必要性が急務と痛感し独立。「挑戦・創造・変革」をキーワードに、日本企業、外資系企業と、幅広く人財・組織開発コンサルタントとして、特に、上級管理職育成、経営戦略策定、組織開発などの分野で研修、コンサルティング、講演活動等で活躍を経て、世界の人々のこころの支援を多言語多文化で行うグローバルスタートアップとして事業展開を目指す決意をする。

【背景】
2005年11月、 約10年連れ添った最愛の妻をがんで5年間の闘病の後亡くす。
翌年、伴侶との死別自助グループ「Good Grief Network」を共同設立。個別・グループ・グリーフカウンセリングを行う。映像を使用した自助カウンセリングを取り入れる。大きな成果を残し、それぞれの死別体験者は、新たな人生を歩み出す。
長年実践研究を妻とともにしてきた「いきるとは?」「人間学」「メンタルレジリエンス」「メンタルヘルス」「グリーフケア」をさらに学際的に実践研究を推し進め、多数の素晴らしい成果が生まれてきた。私自身がグローバルビジネスの世界で様々な体験をする中で思いを強くした社会課題解決の人生を賭ける決意をする。

株式会社レジクスレイ(Resixley Incorporated)を設立、創業者兼CEO
事業成長アクセラレーター

【専門領域】
・レジリエンス(精神的回復力) ・グリーフケア ・異文化理解 ・グローバル人財育成 
・東洋哲学・思想(人間学、経営哲学、経営戦略) ・組織文化・風土改革  ・人材・組織開発、キャリア開発
・イノベーション・グローバル・エコシステム形成支援

【主な著書/論文/プレス発表】
「グローバルビジネスパーソンのためのメンタルヘルスガイド」kindle版
「喪失の先にある共感: 異文化と紡ぐ癒しの物語」kindle版
「実践!情報・メディアリテラシー: Essential Skills for the Global Era」kindle版
「こころと共感の力: つながる時代を前向きに生きる知恵」kindle版
「未来を拓く英語習得革命: AIと異文化理解の新たな挑戦」kindle版
「グローバルビジネス成功の第一歩: 基礎から実践まで」Kindle版
「仕事と脳力開発-挫折また挫折そして希望へ-」(城野経済研究所)
「英語教育と脳力開発-受験直前一ヶ月前の戦略・戦術」(城野経済研究所)
「国際派就職ガイド」(三修社)
「セミナーニュース(私立幼稚園を支援する)」(日本経営教育研究所)

【主な研修実績】
・グローバルビジネスコミュニケーションスキルアップ ・リーダーシップ ・コーチング
・ファシリテーション ・ディベート ・プレゼンテーション ・問題解決
・グローバルキャリアモデル構築と実践 ・キャリア・デザインセミナー
・創造性開発 ・情報収集分析 ・プロジェクトマネジメント研修他
※上記、いずれもファシリテーション型ワークショップを基本に実施

【主なコンサルティング実績】
年次経営計画の作成。コスト削減計画作成・実施。適正在庫水準のコントロール・指導を遂行。人事総務部門では、インセンティブプログラムの開発・実施、人事評価システムの考案。リストラクチャリングの実施。サプライチェーン部門では、そのプロセス及びコスト構造の改善。ERPの導入に際しては、プロジェクトリーダーを務め、導入期限内にその導入。組織全般の企業風土・文化の改革を行う。

【主な講演実績】
産業構造変革時代に求められる人材
外資系企業で働くということ
外資系企業へのアプローチ
異文化理解力
経営の志
商いは感動だ!
品質は、タダで手に入る
利益は、タダで手に入る
共生の時代を創る-点から面へ、そして主流へ
幸せのコミュニケーション
古典に学ぶ人生
古典に学ぶ経営
論語と経営
論語と人生
安岡正篤先生から学んだこと
素読のすすめ
経営の突破口は儒学にあり
実践行動学として儒学に学ぶ!~今ここに美しく生きるために~
何のためにいきるのか~一人の女性の死を見つめて~
縁により縁に生きる
縁に生かされて~人は生きているのではなく生かされているのだ!~
看取ることによって手渡されるいのちのバトン
など
シエアする:
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