般若心経とは何か──メンタルヘルスから読み解く「苦しみに囚われない心」

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般若心経とは何か──メンタルヘルスから読み解く「苦しみに囚われない心」

本記事は、全12回シリーズ「般若心経とメンタルヘルス──『空』『無所得』『心無罣礙』から学ぶ、苦しみに囚われない心のつくり方【全12 回】」の第1回である。

この連載では、般若心経を「唱えれば悩みが消えるお経」や「心の病を治すお経」として扱うのではない。

般若心経そのものの言葉と思想を丁寧に読み、そのうえで、認知心理学、マインドフルネス、Acceptance and Commitment Therapy(ACT)、認知療法、脳科学、悲嘆研究など、現代のメンタルヘルス研究と対話させながら、人間はなぜ苦しみに囚われるのか、そして苦しみがあっても、それだけに人生を支配されずに生きることはできるのかを考えていく。

その出発点として、第1回では、そもそも般若心経とはどのような経典なのか、「般若」とは何か、「波羅蜜多」とは何を意味するのかを考える。

そして最後に、般若心経をまず「聴く」「読む」「声に出す」という入口から、この短い経典の世界へ入っていきたい。

はじめに なぜ今、般若心経をメンタルヘルスとして読むのか

私たちは、苦しみがなくなれば幸せになれると考えやすい。

不安がなくなれば、安心して暮らせる。

失敗しなければ、自信を失わずに済む。

病気にならなければ、将来を恐れなくてよい。

大切な人を失わなければ、深く悲しまずに済む。

人から拒絶されなければ、自分の価値を疑わずに済む。

将来がすべて予測できれば、怖がらなくてもよい。

しかし、人間の人生から、不安、失敗、病気、老い、別離、喪失、死を完全に取り除くことはできない。

どれほど慎重に生きても、予想しなかった出来事は起こる。

どれほど健康に気をつけても、身体は変化する。

どれほど大切にしている人間関係であっても、いつまでも同じ形で続くとは限らない。

そして、愛する人との別れを一生避けることもできない。

ここに、人間の心が抱える根本的な問題がある。

私たちはしばしば、

「苦しみがなくならなければ、幸せにはなれない」

と考える。

しかし、もし人生から苦しみそのものを完全になくすことができないのであれば、この考え方だけでは、私たちは永久に安心することができない。

そこで、問いを変えてみる必要がある。

「どうすれば苦しみをすべてなくせるのか」

ではなく、

「苦しみが存在していても、その苦しみだけに人生を支配されない心を育てることはできないだろうか」

という問いである。

この問いを考えるとき、極めて示唆的な言葉を持つ経典が『般若心経』である。

般若心経には、

「五蘊」

「空」

「色即是空」

「空即是色」

「無所得」

「心無罣礙」

「無有恐怖」

「遠離一切顛倒夢想」

といった、非常に印象的な言葉が登場する。

これらは仏教の思想を理解するための重要な概念であると同時に、現代を生きる私たちが、自分の感情、思考、恐怖、執着、自己イメージ、喪失などとどのように向き合うかを考えるための手掛かりにもなり得る。

ただし、ここで最初に重要な線引きをしておきたい。

般若心経は、現代心理療法の教科書ではない。

また、マインドフルネスや心理療法に関する研究結果を、そのまま「般若心経の医学的効果」と読み替えることもできない。

般若心経は仏教経典である。

一方、MBSR、MBCT、ACT、認知療法などは、現代の心理学・医学・臨床科学の文脈の中で発展してきたものである。

歴史も、目的も、理論的背景も同じではない。

本シリーズでは、その違いを消してしまうのではなく、違いを明確にしたまま両者を対話させたい。

そうすることによって、

「人間はなぜ苦しむのか」

「なぜ私たちは自分の考えに囚われるのか」

「感情に飲み込まれるとはどういうことなのか」

「執着を手放すとは何を意味するのか」

「恐怖がありながら、恐怖だけに支配されずに生きることはできるのか」

という、時代を超えた問いが見えてくるからである。

序章 短い経典に凝縮された「心の哲学」

般若心経は、非常に短い経典である。

しかし、その短さとは対照的に、そこには人間と世界をどのように見るのかという、極めて大きな問いが凝縮されている。

その中心にあるのが「般若」であり、「空」である。

般若心経を初めて読む人は、「空」という文字から、

「何も存在しない」

「すべては無意味である」

「何も考えないようにする」

「感情を捨てる」

「自分をなくす」

といった印象を持つかもしれない。

しかし、本シリーズで扱う「空」は、そのような単純な「無」と同じものではない。

私たちが固定して存在していると思っているものも、実際にはさまざまな条件や関係の中で成立し、絶えず変化している。

身体は変化する。

感情も変化する。

人間関係も変化する。

仕事も変化する。

社会も変化する。

そして、

「私はこういう人間である」

という自己イメージさえ、人生の経験によって変化していく。

ところが、人間の心には、変化するものを固定したくなる性質がある。

「この関係は永遠に続いてほしい」

「健康な自分のままでいたい」

「今の地位を絶対に失いたくない」

「この人には嫌われたくない」

「失敗した人間だと思われたくない」

「以前の自分に戻りたい」

そう願うこと自体が悪いわけではない。

愛する人との関係が続いてほしいと願うことも、健康でありたいと願うことも、仕事で成功したいと願うことも、ごく自然である。

問題になるのは、変化する可能性を持つものを、

「絶対に変化してはいけないもの」

として心が握りしめたときである。

現実が自分の望む形から少しでも外れた瞬間、心は強い抵抗を始める。

そして、その抵抗によって、もともとの痛みにさらに別の苦しみが加わることがある。

般若心経をメンタルヘルスという観点から読む一つの意味は、ここにある。

人生から変化をなくすのではない。

感情をなくすのでもない。

悲しみをなくすのでもない。

恐怖をなくすのでもない。

変化するものを固定したものとして握りしめる心の働きに気づき、自分の思考や感情を「自分のすべて」と同一視しない視点を育てていく。

本連載でいう「苦しみに囚われない心」とは、そのような心を意味している。

第1章 般若心経とは何か──千年以上読み継がれてきた「智慧の経典」

般若心経は、大乗仏教の「般若」の思想を伝える経典として読み継がれてきた。

その背景には、「般若経」と呼ばれる経典群がある。

般若心経という短い経典の中には、般若思想を考えるうえで重要な概念が凝縮されている。

それが、

五蘊。

空。

色即是空。

空即是色。

無所得。

心無罣礙。

無有恐怖。

遠離一切顛倒夢想。

そして、

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

である。

日本では般若心経は、寺院での読経、法要、写経などを通して広く知られてきた。

しかし、般若心経は日本だけの経典ではない。

大乗仏教圏を中心に、さまざまな言語と文化の中で読み継がれてきた。

現代でも、その読み方は一様ではない。

例えば、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンは、般若心経を現代の言葉で読み直し、「空」を単なる「何もない」という意味ではなく、存在同士が互いに関係しながら成り立っているという視点から解説している。

同じ般若心経であっても、日本での読経や写経、ベトナム系禅仏教における理解、英語圏での現代的な解説など、その受け止め方や実践の姿は異なる。

だからこそ、この経典は単に「昔のお経」としてだけではなく、現代社会の中でも問い直すことができる。

では、般若心経は、私たちに何を問いかけているのだろうか。

その核心を一言で説明することは難しい。

しかし、本シリーズを貫く問いとして表現するならば、次のように言うことができる。

「人間は、現実そのものだけでなく、その現実を固定的に捉え、握りしめることによって苦しみを大きくしているのではないか」

例えば、不安が生じたとする。

そのとき、

「私は不安な人間だ」

と考える場合と、

「いま私の中に不安という感情が生じている」

と捉える場合では、心理的な位置関係が異なる。

前者では、不安と自分自身が一体化している。

後者では、不安は自分の中で起きている一つの現象になる。

悲しみについても同じである。

「私の人生は悲しみそのものだ」

と考えることと、

「私はいま、深い悲しみを経験している」

と捉えることは同じではない。

怒りについても、

「私は怒りそのものだ」

と感じるのと、

「いま怒りが生じている」

と観察することは異なる。

もちろん、言葉を言い換えただけで強い不安や悲しみが消えるわけではない。

しかし、そこには一つの重要な違いがある。

感情に完全に飲み込まれている状態と、感情を感じながらも、その感情を観察している状態の違いである。

この「観る」という問題は、第2回で「観自在」と「五蘊」を取り上げる際に詳しく考えることになる。

般若心経は、苦しみのない世界を約束する経典として読むのではなく、苦しみが存在する世界をどのように見るのかを問い直す「智慧の経典」として読むことができるのである。

第2章 「般若」とは何か──知識ではなく、現実を見る智慧

「般若心経」という名称の最初にある重要な言葉が、「般若」である。

般若は、サンスクリット語の prajñā に対応する言葉として用いられる。

ここで重要なのは、般若を単なる「知識量」や「頭の良さ」と考えないことである。

私たちは、多くのことを知っていても、自分の心に囚われることがある。

心理学を学んでいても、不安になる。

人生経験が豊富でも、失敗を恐れる。

成功した人でも、人からの評価に苦しむ。

死について深く考えたことのある人でも、大切な人との別れを前にすれば悲しむ。

知識があることと、苦しみに囚われなくなることは同じではない。

「般若」を考えるうえで重要なのは、何かについて多くの情報を知るということよりも、物事をどのように見るかという問題である。

私たちの心は、目の前の出来事をそのまま受け取っているとは限らない。

出来事を解釈し、評価し、意味づけ、その意味づけによって感情を生み出していることがある。

例えば、仕事で一度失敗したとする。

その出来事から、

「今回はうまくいかなかった」

と考える人もいれば、

「私は能力のない人間だ」

と考える人もいる。

さらに、

「これから何をしても失敗するに違いない」

と考えることもある。

起きた出来事は一つでも、そこから作られる心の物語は一つではない。

そして、人間はときに、その物語を事実そのものだと思い込む。

「あの人はきっと自分を嫌っている」

「私は誰からも必要とされていない」

「みんな幸せなのに、自分だけが取り残されている」

「一度失敗したから、もう終わりだ」

こうした考えが頭に浮かぶこと自体は珍しいことではない。

問題は、

「そう考えている」

ということと、

「それが客観的な事実である」

ということを区別できなくなったときである。

般若心経には、後半で、

「遠離一切顛倒夢想」

という言葉が現れる。

本シリーズでは、この「顛倒夢想」を、精神医学上の「妄想」と同じ意味で扱うことはしない。

むしろ、自分の認識を絶対化し、頭の中につくられた世界を現実そのものだと思い込んでしまう問題として考えていく。

この点には、現代の認知心理学や認知療法、ACTなどとの興味深い接点がある。

ただし、両者を同じものだとするのではない。

般若心経は般若心経として読み、現代心理学は現代心理学として理解する。

そのうえで並べてみる。

すると、

「人間はなぜ、自分の考えによって自分自身を苦しめてしまうのか」

という問題が、より立体的に見えてくるのである。

般若とは、単に何かをたくさん知ることではない。

私たちが「当然こうである」と思い込んでいる見方そのものを問い直す智慧として、本シリーズでは考えていきたい。

第3章 「波羅蜜多」とは何か──苦しみの此岸から智慧の彼岸へ

般若心経には、

「般若波羅蜜多」

という言葉が繰り返し登場する。

「波羅蜜多」は pāramitā に対応する言葉であり、伝統的には「彼岸に至る」といったイメージで理解されてきた。

「彼岸」という言葉を聞くと、私たちは何か遠い場所を想像するかもしれない。

しかし、メンタルヘルスという視点からこの言葉を考えるとき、重要なのは、現実から逃げて別の世界へ移ることではない。

むしろ、

「同じ現実の中にいながら、その現実との関係の持ち方が変わる」

という視点が重要になる。

例えば、不安を考えてみよう。

不安を完全になくすことができれば安心できる、と思うかもしれない。

しかし、人間が未来を完全に予測できない以上、不安が生じる可能性をゼロにすることはできない。

病気への不安。

仕事への不安。

老いへの不安。

家族への不安。

死への不安。

これらを一切感じない人間になることが、本当に望ましい心の状態なのだろうか。

恐怖も同じである。

危険を前にして恐怖を感じる能力は、人間にとって自然なものである。

大切なのは、「恐怖を感じない人間」になることではなく、恐怖によって心のすべてを占領されないことである。

般若心経には、

「心無罣礙」

「無罣礙故」

「無有恐怖」

という印象的な流れがある。

心に妨げとなるものがなく、妨げがないゆえに恐怖がない。

この「無有恐怖」を、怖いものが一切なくなる状態と単純に考える必要はない。

人間である以上、病気は怖い。

大切な人を失うことは怖い。

仕事を失うことも怖い。

老いることも怖い。

死ぬことも怖い。

しかし、

「怖い」

という感情が存在することと、

「恐怖が自分の人生すべてを支配している」

ことは同じではない。

この違いは非常に大きい。

悲しみについても同様である。

大切な人を失ったとき、

「執着を捨てれば悲しくなくなる」

と考えることは、本シリーズの立場ではない。

愛していたから悲しいのである。

大切だったから喪失が痛いのである。

その悲しみを無理に消す必要はない。

問われるのは、

悲しみを抱えながら生きることができるか。

悲しみがありながら、人と再びつながることができるか。

傷ついた経験がありながら、もう一度人生へ踏み出すことができるか。

ということである。

そう考えると、「此岸から彼岸へ」というイメージも、現実逃避ではなく、現実との関係の変化として読むことができる。

同じ人生を生きている。

同じ過去を持っている。

失ったものが元に戻るわけでもない。

未来が確実になるわけでもない。

それでも、心の中で何かが変わる。

「絶対にこうでなければならない」

という握りしめ方が少し緩む。

「この感情こそが自分そのものだ」

という同一化から少し距離が生まれる。

「未来はこうなるに違いない」

という思考を、思考として見る余地が生まれる。

この変化こそ、「苦しみそのものをなくす」のではなく、「苦しみとの関係を変える」という、本シリーズの中心テーマにつながっている。

第4章 まず般若心経を聴き、声に出して読む

ここまで、般若心経について意味の側から考えてきた。

しかし、般若心経は、文字だけで伝えられてきた経典ではない。

人々はそれを読み、唱え、聴いてきた。

そこには声がある。

呼吸がある。

リズムがある。

間がある。

沈黙がある。

したがって、般若心経を学ぶとき、意味をすべて理解してから始めなければならないわけではない。

まず聴いてみる。

文字を追ってみる。

声に出してみる。

分からない言葉があっても構わない。

「空とは何か」

「五蘊とは何か」

「無所得とは何か」

「罣礙とは何か」

それらは、この連載を通して一つずつ丁寧に考えていけばよい。

むしろ最初の段階では、

「この経典にはどのような言葉が並んでいるのか」

「どの言葉が自分の心に引っ掛かるのか」

を感じてみることに意味がある。

どの「般若心経」を掲載するのか

ここで、本文の版について一つ確認しておきたい。

本シリーズでは、文献上の基準として、玄奘訳『般若波羅蜜多心経』、『大正新脩大藏經』第8巻 No.251(Taishō 251)を参照する。

一方、日本の寺院で実際に読誦されている般若心経には、経題を「摩訶般若波羅蜜多心経」とすること、「遠離一切顛倒夢想」と唱えることなど、T251の校訂本文とは細部が異なる慣用的な読誦形がある。

本稿では、研究上の底本と実際の読誦を混同しないため、この違いを明示したうえで、日本の読者が実際の読経とともに声に出して読むことのできる一般的な読誦形を掲載する。

漢字の異体字や真言部分の表記などにも複数の形が存在するため、本稿の表記だけが唯一の正しい形であるという意味ではない。

文献上のT251本文については、CBETA(Chinese Buddhist Electronic Text Association)で確認することができる。

CBETA『般若波羅蜜多心經』T0251

摩訶般若波羅蜜多心経──全文と読み方

以下では、漢文のすぐ下に、日本で広く用いられている読誦の読み方を付した。

意味を理解しようと急がず、まず声の流れを感じながら読んでみてほしい。

摩訶般若波羅蜜多心経
まか はんにゃ はらみった しんぎょう

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
かんじざいぼさつ ぎょうじん はんにゃ はらみった じ

照見五蘊皆空 度一切苦厄
しょうけん ごうん かいくう ど いっさい くやく

舎利子 色不異空 空不異色
しゃりし しき ふい くう くう ふい しき

色即是空 空即是色
しき そくぜ くう くう そくぜ しき

受想行識 亦復如是
じゅそうぎょうしき やくぶ にょぜ

舎利子 是諸法空相
しゃりし ぜ しょほう くうそう

不生不滅 不垢不浄 不増不減
ふしょう ふめつ ふく ふじょう ふぞう ふげん

是故空中 無色 無受想行識
ぜこ くうちゅう むしき む じゅそうぎょうしき

無眼耳鼻舌身意
む げんにびぜっしんい

無色声香味触法
む しきしょうこうみそくほう

無眼界 乃至無意識界
む げんかい ないし む いしきかい

無無明 亦無無明尽
む むみょう やく む むみょうじん

乃至無老死 亦無老死尽
ないし む ろうし やく む ろうしじん

無苦集滅道
む くしゅうめつどう

無智亦無得 以無所得故
むち やく むとく い むしょとく こ

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
ぼだいさった え はんにゃ はらみった こ

心無罣礙 無罣礙故
しんむ けいげ む けいげ こ

無有恐怖
むう くふ

遠離一切顛倒夢想
おんり いっさい てんどうむそう

究竟涅槃
くきょう ねはん

三世諸仏 依般若波羅蜜多故
さんぜ しょぶつ え はんにゃ はらみった こ

得阿耨多羅三藐三菩提
とく あのくたら さんみゃく さんぼだい

故知般若波羅蜜多
こち はんにゃ はらみった

是大神呪 是大明呪
ぜ だいじんしゅ ぜ だいみょうしゅ

是無上呪 是無等等呪
ぜ むじょうしゅ ぜ むとうどうしゅ

能除一切苦 真実不虚
のうじょ いっさいく しんじつ ふこ

故説般若波羅蜜多呪
こせつ はんにゃ はらみった しゅ

即説呪曰
そくせつ しゅわつ

羯諦羯諦 波羅羯諦
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい

波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
はらそうぎゃてい ぼじ そわか

般若心経
はんにゃ しんぎょう

日本語の読経を聴いてみる

文字を目で追った後は、実際の読経を聴いてみたい。

日本語による読誦として、本シリーズでは全国曹洞宗青年会が公開している「般若心経/共に唱える」を紹介する。

この動画は、単に読経を鑑賞するためではなく、僧侶と一緒に般若心経を唱えられるよう制作されたものである。最初に般若心経へ触れる読者にとって、「聴く」だけでなく「声を重ねてみる」という体験をしやすい資料である。

全国曹洞宗青年会「般若心経/共に唱える」公式ページ

YouTube「般若心経/共に唱える」

読経には、文章を黙読するときとは異なる経験がある。

一定のリズムで文字を追い、呼吸をしながら声を出していく。

すると、普段なら意味だけを追っていた言葉が、「音」として身体に入ってくる。

もちろん、これによって何らかの医学的効果が保証されるわけではない。

ここでの目的は、「治療」ではなく、般若心経が長く「読むもの」であると同時に「唱え、聴くもの」でもあったことを体験することである。

英語で聴く般若心経──Plum Village

般若心経は、日本だけで唱えられている経典ではない。

世界各地の大乗仏教の実践共同体でも読まれている。

その一例として紹介したいのが、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンが創設したPlum Villageである。

Plum Villageでは、般若心経を、

The Insight That Brings Us to the Other Shore

と題して英訳している。

この英訳では、「空」を単純な「nothingness」として理解するのではなく、独立して固定された自己存在を持たず、互いの関係の中で存在しているという「interbeing」の思想が強く意識されている。

公式ページでは、英語本文を読みながら読誦音声を聴くことができる。

Plum Village「The Insight that Brings Us to the Other Shore (Heart Sutra)」

日本語の般若心経と英語版を続けて聴いてみるのも興味深い。

同じ経典でありながら、言語、音、リズム、翻訳によって印象はかなり異なる。

しかし、その中心には、

「五蘊」

「空」

「障碍」

「恐怖」

「彼岸」

という共通した問いがある。

般若心経が一つの文化圏だけに閉じた経典ではなく、異なる文化の中で読み直され続けていることを感じることができるだろう。

「分かる」前に「出会う」

私たちは、何かを学ぶとき、すぐに正解を知りたくなる。

「空とは何ですか」

「色即是空とはどういう意味ですか」

「無所得とは何ですか」

「般若心経を唱えると、どのような効果がありますか」

もちろん、その問いは重要である。

しかし、般若心経のような経典を読む場合、一度説明を聞いただけですべてを理解できるとは限らない。

同じ言葉であっても、自分の人生経験によって響き方が変わることがある。

仕事が順調なときに読む「無所得」と、挫折したときに読む「無所得」は、同じようには聞こえないかもしれない。

健康なときに読む「無老死」と、病気や老いを意識するときに読む「無老死」も、同じではないだろう。

大切な人と暮らしているときに読む「空」と、大切な人を失った後に読む「空」も、同じ言葉でありながら、違う重さを持つことがある。

経典とは、一度読んで答えを得て終わるものではなく、自分の人生の変化とともに読み返されるものでもある。

だからこそ、最初からすべてを理解しようとしなくてもよい。

まず、出会う。

聴く。

読む。

声にする。

そして、

「なぜ、この言葉が自分には気になるのだろう」

と問いかけてみる。

そこから始めればよいのである。

最初に心へ残った言葉は何か

全文を一度読んだところで、一つだけ試してみたい。

意味を調べる前に、

「いま、自分の心に最も残った言葉はどれだったか」

を考えてみるのである。

「色即是空」だっただろうか。

「空即是色」だっただろうか。

「無所得」だっただろうか。

「心無罣礙」だっただろうか。

「無有恐怖」だっただろうか。

「遠離一切顛倒夢想」だっただろうか。

あるいは最後の、

「羯諦羯諦 波羅羯諦」

だったかもしれない。

なぜ、その言葉が心に残ったのか。

答えを急ぐ必要はない。

その問いを持っておくこと自体が、この全12回を読む一つの準備になる。

読経を「治療」にしない

ここでも、重要な注意がある。

般若心経を唱えることによって、気持ちが落ち着く人もいるだろう。

呼吸が一定になり、声のリズムに注意が向き、日常の考え事から一時的に距離が生まれる場合もある。

しかし、それをもって、

「般若心経を唱えればうつ病が治る」

「読経すれば不安障害が治る」

「般若心経には医学的治療効果がある」

と結論づけることはできない。

本シリーズでは、この線引きを一貫して守る。

読経、写経、瞑想、呼吸などが心を整える実践として意味を持つことはあり得る。

しかし、それらは精神科・心療内科での診断や治療、心理専門職による心理療法の代わりではない。

般若心経の価値を語るために、医学的に証明されていない効果を付け加える必要はない。

般若心経は、それ自体が、人間の苦しみ、認識、執着、恐怖について深く考えるための経典だからである。

今回の小さな実践

第1回の最後に、難しい実践は必要ない。

まず、日本語の般若心経を一度聴いてみる。

次に、文字を目で追いながら、もう一度聴く。

可能であれば、三度目は自分でも声に出してみる。

そして、一つだけ自分に問いかける。

「いま、自分の心に最も引っ掛かっているものは何だろう」

仕事かもしれない。

人間関係かもしれない。

将来への不安かもしれない。

過去の失敗かもしれない。

失った人かもしれない。

病気かもしれない。

年齢かもしれない。

自分への評価かもしれない。

人からどう見られるかという心配かもしれない。

答えを変えようとする必要はない。

ただ、

「自分の心には、これが引っ掛かっている」

と気づいてみる。

それだけでよい。

後の回で扱う「心無罣礙」という言葉は、まさに、この「心の引っ掛かり」と深く関係してくる。

般若心経は「苦しみを消す方法」なのか

ここで、第1回の最初の問いへ戻ろう。

なぜ今、般若心経なのか。

現代には、ストレス、不安、孤独、怒り、喪失、将来への恐怖がある。

しかし、これらは現代だけに突然生まれたものではない。

人間は昔から、変化、病気、老い、別離、死という現実と向き合ってきた。

技術が進歩しても、人間が大切なものを失う悲しみそのものが消えるわけではない。

情報が増えても、未来の不確実性が完全になくなるわけではない。

医学が進歩しても、人間が老いと死から完全に自由になるわけではない。

だからこそ、

「苦しみをなくす」

という問いだけではなく、

「苦しみとどう生きるのか」

という問いが必要になる。

般若心経は、苦しみから逃げるための経典としてではなく、

苦しみのただ中にあっても、それだけに人生を支配されないための智慧

として読むことができるのではないだろうか。

目指すのは、「絶対に傷つかない心」ではない。

傷ついても、もう一度立ち上がることのできる心。

不安があっても、一歩を踏み出すことのできる心。

悲しみがあっても、その悲しみを抱えながら生きることのできる心。

変化を恐れながらも、変化とともに生きることのできる心。

そして、自分の考えや感情を「自分のすべて」だと思い込まない心である。

本シリーズが探求するのは、そのような心である。

第1回のまとめ

第1回では、般若心経そのものへの入口として、「般若」と「波羅蜜多」という言葉を中心に考えてきた。

般若心経は、単に願いを叶えるためのお経でも、苦しみを魔法のように消してくれる経典でもない。

また、「空」という言葉を理由に、人生や感情を否定する思想でもない。

むしろ、

「私たちは物事をどのように見ているのか」

「自分の考えを現実そのものだと思い込んでいないか」

「変化するものを固定しようとしていないか」

「不安や悲しみを自分そのものだと思っていないか」

という問いを、私たちに投げかける経典として読むことができる。

そして、この連載全体を貫く問いは、

「苦しみをなくすこと」

ではなく、

「苦しみがあっても、その苦しみだけに人生を支配されないこと」

である。

次回から、般若心経の本文そのものへ、さらに深く入っていく。

次回予告

第2回 般若心経の「五蘊」とは何か──「観自在」から学ぶ感情に振り回されない心

次回は、般若心経の冒頭に登場する、

「観自在菩薩」

「行深般若波羅蜜多時」

「照見五蘊皆空」

という言葉から始める。

「観自在」とは何か。

自分の心を「観る」とはどういうことなのか。

そして、色・受・想・行・識という「五蘊」とは何を意味しているのか。

「私は不安だ」

という状態から、

「いま私の中に不安が生じている」

という見方へ。

感情をなくすのではなく、感情と自分自身を完全に同一化しない心のあり方を、般若心経と現代のメンタルヘルスの双方から考えていく。

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「般若心経とメンタルヘルス──『空』『無所得』『心無罣礙』から学ぶ、苦しみに囚われない心のつくり方【全12回・総合案内】」

参考文献・関連資料

般若心経・仏教思想

中村元・紀野一義(訳註)(1982)『般若心経・金剛般若経』岩波書店(岩波文庫)。

般若心経を理解するうえでの基本文献の一つである。サンスクリット原典からの邦訳と漢訳を比較しながら読むことができ、「般若」「空」「五蘊」「色即是空・空即是色」「無所得」などの主要概念を確認するための基礎資料となる。

佐々木閑(2014)『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』NHK出版。

般若心経の成立背景、大乗仏教における位置づけ、「空」「色即是空」などの思想を一般読者にも理解しやすく解説した文献である。

Thich Nhat Hanh. (2017). The other shore: A new translation of the Heart Sutra with commentaries. Parallax Press.

ティク・ナット・ハンによる般若心経の現代的英訳と解説である。「空」を単なる無としてではなく、「interbeing(相互存在)」という観点から捉える点に特徴がある。

84000: Translating the Words of the Buddha. The Heart of the Perfection of Wisdom, the Blessed Mother.

チベット大蔵経に伝わる般若心経の英訳、序説、注釈、用語集を収録するオンライン資料である。

CBETA(Chinese Buddhist Electronic Text Association)『大正新脩大藏經』第8巻 No.251「般若波羅蜜多心經」。

玄奘訳『般若波羅蜜多心経』の漢文本文および校異を確認するためのオンライン資料である。

マインドフルネス・心理療法

Kabat-Zinn, J. (2013). Full catastrophe living: Using the wisdom of your body and mind to face stress, pain, and illness (Rev. ed.). Bantam Books.

Mindfulness-Based Stress Reduction(MBSR)の基礎となる代表的文献である。

Segal, Z. V., Williams, J. M. G., & Teasdale, J. D. (2012). Mindfulness-based cognitive therapy for depression (2nd ed.). Guilford Press.

Mindfulness-Based Cognitive Therapy(MBCT)の代表的文献である。思考や感情を自分自身と同一視せず、「起きている心理現象」として観察する脱中心化を考える際の重要な資料となる。

Hayes, S. C., Strosahl, K. D., & Wilson, K. G. (2011). Acceptance and commitment therapy: The process and practice of mindful change (2nd ed.). Guilford Press.

Acceptance and Commitment Therapy(ACT)の代表的文献であり、アクセプタンス、認知的脱フュージョン、現在への注意などを考えるうえで参考となる。

関連資料──般若心経を聴く・読む

全国曹洞宗青年会「般若心経/共に唱える」。

僧侶とともに般若心経を唱えることができるよう制作された読誦動画である。

全国曹洞宗青年会「般若心経/共に唱える」

全国曹洞宗青年会「現代語訳 摩訶般若波羅蜜多心経」。

般若心経の現代語訳と参考文献を掲載している。

全国曹洞宗青年会「現代語訳 摩訶般若波羅蜜多心経」

Plum Village, “The Insight that Brings Us to the Other Shore (Heart Sutra).”

ティク・ナット・ハンによる現代英訳であり、英語本文と読誦音声を公開している。

Plum Village “The Insight that Brings Us to the Other Shore”

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投稿者プロフィール

市村 修一
市村 修一
【略 歴】
茨城県生まれ。
明治大学政治経済学部卒業。日米欧の企業、主に外資系企業でCFO、代表取締役社長を経験し、経営全般、経営戦略策定、人事、組織開発に深く関わる。その経験を活かし、激動の時代に卓越した人財の育成、組織開発の必要性が急務と痛感し独立。「挑戦・創造・変革」をキーワードに、日本企業、外資系企業と、幅広く人財・組織開発コンサルタントとして、特に、上級管理職育成、経営戦略策定、組織開発などの分野で研修、コンサルティング、講演活動等で活躍を経て、世界の人々のこころの支援を多言語多文化で行うグローバルスタートアップとして事業展開を目指す決意をする。

【背景】
2005年11月、 約10年連れ添った最愛の妻をがんで5年間の闘病の後亡くす。
翌年、伴侶との死別自助グループ「Good Grief Network」を共同設立。個別・グループ・グリーフカウンセリングを行う。映像を使用した自助カウンセリングを取り入れる。大きな成果を残し、それぞれの死別体験者は、新たな人生を歩み出す。
長年実践研究を妻とともにしてきた「いきるとは?」「人間学」「メンタルレジリエンス」「メンタルヘルス」「グリーフケア」をさらに学際的に実践研究を推し進め、多数の素晴らしい成果が生まれてきた。私自身がグローバルビジネスの世界で様々な体験をする中で思いを強くした社会課題解決の人生を賭ける決意をする。

株式会社レジクスレイ(Resixley Incorporated)を設立、創業者兼CEO
事業成長アクセラレーター

【専門領域】
・レジリエンス(精神的回復力) ・グリーフケア ・異文化理解 ・グローバル人財育成 
・東洋哲学・思想(人間学、経営哲学、経営戦略) ・組織文化・風土改革  ・人材・組織開発、キャリア開発
・イノベーション・グローバル・エコシステム形成支援

【主な著書/論文/プレス発表】
「グローバルビジネスパーソンのためのメンタルヘルスガイド」kindle版
「喪失の先にある共感: 異文化と紡ぐ癒しの物語」kindle版
「実践!情報・メディアリテラシー: Essential Skills for the Global Era」kindle版
「こころと共感の力: つながる時代を前向きに生きる知恵」kindle版
「未来を拓く英語習得革命: AIと異文化理解の新たな挑戦」kindle版
「グローバルビジネス成功の第一歩: 基礎から実践まで」Kindle版
「仕事と脳力開発-挫折また挫折そして希望へ-」(城野経済研究所)
「英語教育と脳力開発-受験直前一ヶ月前の戦略・戦術」(城野経済研究所)
「国際派就職ガイド」(三修社)
「セミナーニュース(私立幼稚園を支援する)」(日本経営教育研究所)

【主な研修実績】
・グローバルビジネスコミュニケーションスキルアップ ・リーダーシップ ・コーチング
・ファシリテーション ・ディベート ・プレゼンテーション ・問題解決
・グローバルキャリアモデル構築と実践 ・キャリア・デザインセミナー
・創造性開発 ・情報収集分析 ・プロジェクトマネジメント研修他
※上記、いずれもファシリテーション型ワークショップを基本に実施

【主なコンサルティング実績】
年次経営計画の作成。コスト削減計画作成・実施。適正在庫水準のコントロール・指導を遂行。人事総務部門では、インセンティブプログラムの開発・実施、人事評価システムの考案。リストラクチャリングの実施。サプライチェーン部門では、そのプロセス及びコスト構造の改善。ERPの導入に際しては、プロジェクトリーダーを務め、導入期限内にその導入。組織全般の企業風土・文化の改革を行う。

【主な講演実績】
産業構造変革時代に求められる人材
外資系企業で働くということ
外資系企業へのアプローチ
異文化理解力
経営の志
商いは感動だ!
品質は、タダで手に入る
利益は、タダで手に入る
共生の時代を創る-点から面へ、そして主流へ
幸せのコミュニケーション
古典に学ぶ人生
古典に学ぶ経営
論語と経営
論語と人生
安岡正篤先生から学んだこと
素読のすすめ
経営の突破口は儒学にあり
実践行動学として儒学に学ぶ!~今ここに美しく生きるために~
何のためにいきるのか~一人の女性の死を見つめて~
縁により縁に生きる
縁に生かされて~人は生きているのではなく生かされているのだ!~
看取ることによって手渡されるいのちのバトン
など
シエアする:
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