般若心経と認知心理学──反芻思考・認知バイアスから心を解放する方法
本記事は、全12回シリーズ「般若心経とメンタルヘルス──『空』『無所得』『心無罣礙』から学ぶ、苦しみに囚われない心のつくり方」の第5回である。
ここまで私たちは、般若心経の、
「観自在」
「五蘊」
「空」
「色即是空・空即是色」
を読みながら、人間は自分の身体、感情、思考、自己イメージ、そして目の前の世界を、どのように見ているのかを考えてきた。
第2回では、
「私は不安だ」
から、
「いま、私の中に不安が生じている」
へと視点を移すことを考えた。
第3回では、五蘊も自己も固定されたものではないという「空」の考え方を扱った。
第4回では、
色即是空 空即是色
という言葉から、変化する世界を固定化して捉えないこと、そして変化そのものだけでなく、変化に対する心の抵抗が苦しみを大きくする場合があることを考えた。
しかし、ここでもう一つ重要な問題が現れる。
私たちは、そもそも目の前の「現実」をそのまま見ているのだろうか。
例えば、上司から短いメールが届く。
「明日、少し話しましょう」
書かれている事実は、それだけである。
ところが、
「何か失敗しただろうか」
「評価が下がったのではないか」
「異動を命じられるのではないか」
「悪い話に違いない」
という考えが次々に浮かぶ。
胸が苦しくなる。
何度もメールを読み返す。
過去の失敗まで思い出す。
夜になっても頭から離れない。
翌朝を迎える頃には、
「自分は重大な問題を起こしたに違いない」
という世界の中に入っている。
しかし、最初に存在していた事実は、
「明日、少し話しましょう」
という一文だけである。
では、私たちは、
出来事そのものに苦しんでいるのか。
それとも、
出来事について自分の心がつくり出した解釈にも苦しんでいるのか。
第5回では、般若心経と現代の認知心理学・心理療法を並べながら、この問題を考えていく。
ただし、最初に重要な線引きをしておきたい。
般若心経は認知療法の古代版ではない。
五蘊は認知心理学の情報処理モデルではない。
「空」はACTの認知的脱フュージョンと同じ概念でもない。
それぞれには異なる歴史、目的、理論的背景がある。
本稿の目的は両者を同一化することではなく、
異なる思想と科学を並べることで、人間が自分の思考に囚われるとはどういうことなのかを、より立体的に考えること
にある。
第17章 五蘊と認知心理学──人間は世界をどう認識するのか
第2回で、五蘊を取り上げた。
五蘊とは、
色・受・想・行・識
である。
私たちの経験を理解するための仏教的な分析枠組みである。
ここで再び重要なのは、五蘊を現代心理学の概念へ単純に置き換えないことである。
色=身体。
受=感情。
想=認知。
行=行動。
識=意識。
と一対一で対応させれば分かりやすそうに見えるが、それでは仏教における五蘊の意味を狭くしてしまう。
一方で、五蘊と現代の認知心理学を並べてみると、一つ興味深い問いが浮かび上がる。
それは、
人間は、外界をそのまま受け取っているわけではない
という問題である。
私たちは「カメラ」のように世界を見ているわけではない
人間の心は、目の前にある情報をただ記録するカメラではない。
見る。
聞く。
感じる。
意味づける。
過去の経験と結びつける。
予測する。
評価する。
そして行動する。
つまり、「世界を見る」という行為そのものに、人間の心の働きが関与している。
例えば、会議中に同僚が腕を組んで黙っている。
Aさんは、
「真剣に考えているのだろう」
と思う。
Bさんは、
「自分の意見に反対している」
と思う。
Cさんは、
「機嫌が悪いのだろう」
と思う。
同じ光景を見ている。
しかし、そこから生まれる世界は同じではない。
なぜなら、人間は単に情報を受け取るだけでなく、そこに意味を与えているからである。
「受」と「想」の間に見えるもの
五蘊から考えると、この問題は興味深い。
何かに触れる。
快・不快を感じる。
そして、それが何であるかを認識し、意味づける。
もちろん、この過程を現代認知科学の情報処理モデルと同一視することはできない。
しかし、
人間の経験は、目の前の出来事だけで完結していない
という点には重要な接点がある。
私たちは、
「出来事」
だけを経験しているのではない。
その出来事について、
「これは危険だ」
「これは失敗だ」
「この人は自分を嫌っている」
「これは不公平だ」
「これは恥ずかしい」
という意味をつけながら経験している。
その意味づけが、感情や行動にも影響する。
同じ出来事でも、心の反応は違う
例えば、プレゼンテーションで一つ質問に答えられなかったとする。
ある人は、
「準備不足だった。次は調べておこう」
と考える。
別の人は、
「恥をかいた」
と考える。
さらに別の人は、
「自分には能力がない」
と考える。
出来事そのものは、
一つの質問に答えられなかった
である。
しかし、その意味づけによって、その後の感情や行動は大きく変わる。
「次は調べよう」と考えれば、学習へ向かう可能性がある。
「恥をかいた」と考えれば、しばらく落ち込むかもしれない。
「自分には能力がない」と考えれば、次のプレゼンテーションを避けたくなるかもしれない。
さらに、
「もう人前では話さない」
という行動にまで広がる可能性がある。
こうして、一つの出来事から、一つの「自己物語」が形成されていく。
人間は意味をつくる存在である
意味づけること自体が悪いわけではない。
人間は、意味づけることによって世界を理解している。
危険を予測する。
他者の意図を推測する。
過去から学ぶ。
未来を計画する。
こうした能力がなければ、私たちは日常生活を送ることができない。
問題は、
自分が行った解釈を、「唯一の現実」だと思い込んでしまうこと
である。
「そう見えた」
ことと、
「そうである」
ことは同じではない。
この区別が、第5回全体の重要な鍵になる。
第18章 私たちは「現実」ではなく「解釈」に苦しむことがある
ここで、現代の認知療法で重要視されてきた一つの考え方を見てみよう。
人間の感情は、単純に、
出来事 → 感情
という一本道だけで生まれるわけではない。
出来事をどのように捉え、どのような意味を与えたかが、感情と関係する。
これは、
「すべての苦しみは考え方のせいだ」
という意味ではない。
病気そのものは現実である。
失業も現実である。
死別も現実である。
暴力や差別、事故、災害も、単なる「考え方の問題」ではない。
出来事そのものに、現実の痛みが存在する。
そのうえで、
出来事について心が行う解釈が、さらに別の苦しみを加えることがある
ということである。
自動思考──考えようとしなくても浮かんでくる考え
私たちの頭の中には、さまざまな考えが自動的に浮かぶ。
例えば、メールを送ったのに返信がない。
すると、
「怒らせたのではないか」
と思う。
友人がSNSに自分を誘わず集まっている写真を載せた。
「嫌われているのではないか」
と思う。
上司が自分を見ずに通り過ぎた。
「評価が下がっているのではないか」
と思う。
こうした考えは、
「これから意識的に考えよう」
と決めて生じるわけではない。
瞬間的に出てくる。
そして、その内容を疑う前に、感情が反応することがある。
不安。
悲しみ。
怒り。
恥。
焦り。
人間はしばしば、
考えが浮かんだこと
を、
その考えが正しいこと
と取り違える。
しかし、
「私は嫌われていると思った」
という事実と、
「私は実際に嫌われている」
という事実は別である。
事実と解釈を分けてみる
例えば、
「会議で自分の提案が採用されなかった」
という出来事があったとする。
事実は、
「提案が採用されなかった」
である。
しかし、そこから、
「自分の能力が低いからだ」
「上司は自分を評価していない」
「もう昇進できない」
「この会社では自分に未来がない」
という解釈が生まれることがある。
一つずつ見ると、いずれも事実そのものではない。
可能性ではあるかもしれない。
しかし、確認されていない。
それでも、心の中ではそれらが一続きになる。
提案が採用されなかった。
↓
自分には能力がない。
↓
上司から評価されていない。
↓
昇進できない。
↓
自分のキャリアは終わった。
数分のうちに、現在の出来事から未来全体までが決定される。
人間の心は、実に物語をつくるのが速い。
認知バイアス──心には「見方の癖」がある
人間の認知には、さまざまな偏りがある。
それ自体は異常ではない。
限られた時間と情報の中で判断するために、人間の認知は効率的な近道を使う。
しかし、その近道が、ときに現実の見方を偏らせる。
例えば、悪い情報ばかりに注意が向く。
一度の失敗から、
「いつも失敗する」
と一般化する。
一人から批判されただけで、
「みんな自分を嫌っている」
と考える。
物事を、
成功か失敗か。
味方か敵か。
完璧か無価値か。
という二択で見る。
あるいは、相手の気持ちを確認していないのに、
「あの人はこう思っているに違いない」
と考える。
こうした心の働きによって、
事実よりも大きな世界が頭の中につくられる
ことがある。
「そう考えている」と「そうである」を分ける
ここで、第2回から続いてきた視点が生きてくる。
「私は不安だ」
から、
「いま不安が生じている」
へ。
同じように、
「私は嫌われている」
から、
「いま、『私は嫌われている』という考えが浮かんでいる」
へ。
「私は失敗者だ」
から、
「いま、『私は失敗者だ』と自分を評価している」
へ。
「未来は絶望的だ」
から、
「いま、未来は絶望的だという予測をしている」
へ。
言葉を少し変える。
それだけで、考えと事実の間に小さな距離が生まれる。
考えを否定する必要はない。
無理に肯定的に考え直す必要もない。
まず、
これは事実なのか。
それとも、自分の心に浮かんでいる解釈なのか。
と確認する。
この区別は、非常に重要である。
第19章 反芻思考──過去の苦しみを何度も再生する心
人間の心には、過去を繰り返し考える働きがある。
「あのとき、なぜあんなことを言ってしまったのだろう」
「もっと違う選択をしていれば」
「なぜ自分だけがこんな目に遭ったのか」
「あの人の言葉が許せない」
「どうして気づかなかったのだろう」
同じ場面を何度も思い出す。
同じ会話を頭の中で再生する。
自分を責める。
相手を責める。
別の結末を想像する。
そしてまた最初から考える。
このように、苦痛を伴う考えを繰り返し巡らせる心の働きは、心理学では「反芻(rumination)」という概念と関連して研究されてきた。
振り返ることと、反芻することは同じではない
過去を振り返ること自体が悪いわけではない。
失敗を振り返る。
原因を考える。
改善策をつくる。
誰かに謝る。
次の行動を決める。
これは学習につながる。
しかし、反芻では、同じ問いを何度も考えているようでいて、実際には前に進んでいないことがある。
「なぜ、なぜ、なぜ」
を繰り返す。
しかし答えは出ない。
答えが出なくても、また考える。
例えば、
「なぜ自分はあんな失敗をしたのか」
から、
「自分は注意力がない」
「昔からそうだ」
「だから何をしてもうまくいかない」
「これからも失敗する」
へと広がっていく。
もともとは一つの出来事だった。
しかし、頭の中で何度も再生されるうちに、
過去の出来事が現在を占領し、未来まで規定する
ようになる。
身体は「いま」にいるのに、心は過去へ戻る
反芻が興味深いのは、出来事そのものはすでに終わっている場合があることである。
会議は終わっている。
相手との会話も終わっている。
数年前の出来事かもしれない。
しかし、頭の中で思い出した瞬間、身体は再び反応することがある。
胸が苦しくなる。
顔が熱くなる。
怒りが戻る。
悲しくなる。
恥ずかしくなる。
人間の心は、過去を現在のように再体験することがある。
だから、
「もう終わったことなのだから考えるな」
と言われても、簡単には止まらない。
「考えないようにする」は、しばしば難しい
嫌なことを思い出したとき、
「考えないようにしよう」
と思う。
しかし、
「考えてはいけない」
と強く意識するほど、その考えが気になることもある。
例えば、
「絶対にあの失敗を思い出さない」
と思っている時点で、すでにその失敗を思い出している。
だから、思考との関係を変えるには、
「消す」
以外の方法も必要になる。
その一つが、
「いま、またこの考えが始まっている」と気づくこと
である。
「また考えている」と観る
例えば、
「あのとき、別の決断をしていれば」
という考えが始まったとする。
そこで、
「こんなことを考えてはいけない」
ではなく、
「いま、あの出来事をもう一度頭の中で再生している」
と気づく。
さらに、
「この考えは、いま自分に何をさせているだろう」
と観る。
問題解決につながっているのか。
それとも、同じ場所を回り続けているのか。
もし、具体的な行動に結びつくのであれば、
何をするかを決める。
連絡する。
謝罪する。
修正する。
相談する。
計画を立てる。
しかし、もうできることがなく、同じ考えだけが回っているのであれば、
「これは問題解決ではなく、反芻になっているかもしれない」
と気づく。
その気づき自体が、一つの転換になる。
過去を手放すとは、忘れることではない
般若心経との関係で注意したいのは、
「執着を手放す」
を、
「過去を忘れろ」
と理解しないことである。
忘れられない経験もある。
忘れる必要のない経験もある。
大切な人との思い出。
深い喪失。
人生を変えた出来事。
それらまで消す必要はない。
問題は、
過去を覚えていること
と、
過去が現在の心を完全に占領していること
は同じではない、という点である。
過去を持ちながら現在を生きる。
それが可能かどうか。
ここにも、本シリーズの「囚われない」というテーマが現れる。
第20章 認知療法と般若心経──「考え」と「事実」を分ける
ここまで、
出来事。
解釈。
自動思考。
認知バイアス。
反芻思考。
という流れを見てきた。
現代の認知療法では、思考の内容を丁寧に検討し、
その考えを支持する証拠は何か。
反対の証拠は何か。
別の見方はないか。
と考えていくことがある。
例えば、
「上司は自分を評価していない」
という考えがある。
では、証拠は何か。
提案が一度採用されなかった。
一方で、
重要な仕事を任されている。
以前、評価されたこともある。
昇給している。
このように見ていくと、
「上司は自分をまったく評価していない」
という最初の考えは、事実より強い表現だった可能性が見えてくる。
考えを「正しい・間違い」だけで処理しない
ただし、認知療法を、
「ネガティブな考えをポジティブな考えに変える方法」
とだけ理解するのも十分ではない。
大切なのは、
「自分がそう考えている」
ことに気づき、
その考えがどこまで事実に基づいているのかを検討することである。
例えば、
「私は必ず成功する」
と考えることが、現実的とは限らない。
重要なのは、
「私は絶対に失敗する」
を、
「私は絶対に成功する」
へ変えることではない。
むしろ、
「失敗する可能性もある。成功する可能性もある。現時点では分からない」
という、現実に近い見方へ戻すことである。
般若心経との興味深い接点
ここで般若心経へ戻ると、興味深い接点が見えてくる。
般若心経には、
遠離一切顛倒夢想
という言葉がある。
この言葉は第7回で詳しく扱うが、本シリーズでは「顛倒夢想」を、精神医学上の「妄想」と同じ意味では扱わない。
物事を固定的に捉えたり、自分の認識を絶対化したりすることで、
自分の頭の中につくられた世界を現実そのものだと思い込む問題
として考える。
この点は、
「考え」と「事実」を区別する認知療法との間に、興味深い対話の余地をつくる。
しかし、ここで両者を同じものにしてはならない。
般若心経と認知療法は、同じものではない
認知療法は、現代の臨床心理学・精神医学の文脈で発展し、特定の心理的問題に対する理論、評価、治療技法を持つ。
般若心経は、大乗仏教の般若思想を背景とする経典であり、その目的、世界観、歴史的文脈は異なる。
したがって、
「般若心経は古代のCBTだった」
と表現することは適切ではない。
共通点を見つけることと、同一視することは違う。
両者を並べる意味は、
異なる道筋を通ってきた二つの思想体系が、人間が自分の認識を現実そのものと思い込みやすいという問題に、それぞれの方法で向き合っている
ことを見るところにある。
「私はダメだ」を検討する
例えば、
「私はダメな人間だ」
という考えが浮かんだとする。
まず、事実を確認する。
何が起きたのか。
「仕事で一つ失敗した」
のであれば、それが事実である。
次に、
「私はダメな人間だ」
は事実なのか。
それとも評価なのか。
おそらく、それは評価である。
さらに、
「一つ失敗した」
から、
「人間としてダメだ」
へ飛躍している。
ここで、
「私は素晴らしい人間だ」
と無理に言い換える必要はない。
むしろ、
「私は今回、一つの仕事で失敗した」
まで戻す。
これだけで、問題の大きさが変わる。
自分という存在すべてが問題なのではなく、一つの出来事について検討できるようになる。
これは、第3回・第4回で扱った、
「自分を固定された一つの姿に閉じ込めない」
という「空」の読み方とも対話する。
第21章 ACT・脱フュージョン・脱中心化と「空」
ここから、もう少し違う心理療法の視点へ進もう。
Acceptance and Commitment Therapy(ACT)では、人間が苦しむ一つの要因として、思考の内容そのものだけでなく、
思考との関係
が重視される。
その中で重要な概念の一つが、
認知的脱フュージョン(cognitive defusion)
である。
思考と「融合」している状態
例えば、
「私は失敗する」
という考えが浮かんだとする。
思考と強く融合していると、
「私は失敗する」
は単なる考えではなく、
現実そのもの
として感じられる。
その結果、
挑戦しない。
会議で発言しない。
応募しない。
人前に出ない。
という行動につながることがある。
思考そのものが、行動を支配するのである。
そこで、
「私は失敗する」
ではなく、
「私はいま、『私は失敗する』という考えを持っている」
と表現する。
さらに、
「私の心が、『私は失敗する』という物語をつくっている」
と見ることもできる。
考えそのものを消してはいない。
「失敗するかもしれない」という考えはまだある。
しかし、その考えとの距離が少し変わる。
これが、脱フュージョンを理解するための一つの入口である。
「考えを変える」と「考えとの関係を変える」
ここで認知療法との違いを単純化しすぎないよう注意が必要だが、説明のために一つの対比を置いてみよう。
ある考えについて、
「それはどこまで事実に基づいているか」
を検討する方向がある。
一方で、
「その考えが正しいかどうかを今すぐ決着させるのではなく、その考えが存在したまま、どう行動するか」
を考える方向もある。
例えば、
「失敗するかもしれない」
という思考が消えなくても、
自分にとって大切なことであれば、行動する。
不安があってもプレゼンテーションをする。
怖くても医師の診察を受ける。
悲しみがあっても人と会う。
完全に安心してから人生を始めるのではなく、
不安や思考が存在しながらも、自分が大切にする方向へ行動する
という考え方である。
脱中心化──思考や感情を「心の中の出来事」として見る
Mindfulness-Based Cognitive Therapy(MBCT)などでは、
脱中心化(decentering)
という考え方も重視される。
これは、思考や感情を、
「自分そのもの」
「現実そのもの」
としてではなく、
心に生じている出来事として見る視点である。
第2回で扱った、
「私は不安だ」
から、
「いま不安が生じている」
への転換とも比較することができる。
さらに、
「私はダメだ」
ではなく、
「いま『私はダメだ』という考えが生じている」
と見る。
すると、
考えを持っている自分と、その考えそのものが完全には同じではない
という余地が生まれる。
「空」と脱フュージョンは同じなのか
ここで、とても魅力的な比較が生じる。
般若心経では、
五蘊皆空。
色即是空。
空即是色。
と説く。
現代心理療法では、
思考を事実そのものと見なさない。
感情を自己そのものと同一視しない。
という考え方がある。
すると、
「これは同じことなのではないか」
と思いたくなる。
しかし、本シリーズでは、その一歩手前で止まる。
同じではない。
「空」は、大乗仏教における存在理解に関わる深い思想であり、心理技法の名称ではない。
認知的脱フュージョンはACTという現代心理療法の理論と実践の中に位置づけられる心理的プロセスである。
脱中心化も、臨床心理学の研究と治療モデルの文脈で扱われてきた概念である。
したがって、
「空=脱フュージョン」
ではない。
しかし、
人間は、自分の心に生じた思考や感情を固定された実体として握りしめる必要があるのか
という問いを間に置けば、非常に興味深い対話が成立する。
「思考は消さなくてよい」
ここには、実践上も重要な意味がある。
人間は苦しい考えが浮かぶと、
「この考えを消したい」
と思う。
「不安を考えないようにしたい」
「過去を思い出したくない」
「失敗を考えたくない」
しかし、思考を完全にコントロールすることは難しい。
そこで、
思考をなくす
から、
思考があっても、それだけに支配されない
へ問いを変える。
「失敗するかもしれない」
と思っている。
それでも準備する。
「嫌われるかもしれない」
と思っている。
それでも必要なことを伝える。
「怖い」
と感じている。
それでも、自分に必要な一歩を選ぶ。
これは、この連載全体のテーマである、
苦しみをなくすのではなく、苦しみに囚われない
という方向と深く響き合う。
認知バイアスに気づくための小さなチェック
ここで、日常で使える簡単な確認をしてみたい。
何か強い感情が起きたとき、紙やスマートフォンに次の四つを書いてみる。
1 何が起きたのか
できるだけカメラで撮影できるような事実だけを書く。
例えば、
「メールを送ったが、二日間返信がない」
である。
「無視された」
は、まだ解釈である可能性がある。
2 何を考えたのか
「怒っているのではないか」
「嫌われた」
「自分が何か悪いことをした」
といった、頭に浮かんだ考えを書く。
3 何を感じたのか
不安。
悲しみ。
怒り。
恥。
孤独。
その感情を否定せず書く。
4 事実と解釈を分ける
最後に問いかける。
これは確認された事実だろうか。
それとも、いまの自分の解釈だろうか。
そして、
ほかの可能性はないだろうか。
忙しいのかもしれない。
返信を忘れているかもしれない。
体調が悪いのかもしれない。
もちろん、本当に怒っている可能性もある。
大切なのは、
「ポジティブな答えを選ぶ」
ことではない。
一つの解釈だけを現実全体にしないこと
である。
反芻を止めるのではなく、「反芻している」と気づく
もう一つ、今回の実践として試してみたい。
頭の中で同じ出来事が何度も始まったとき、
まず、
「また考えている」
と気づく。
次に、
「これは今、解決できる問題か」
と尋ねる。
解決できるなら、
具体的に一つ行動を決める。
電話する。
相談する。
調べる。
謝る。
計画を立てる。
しかし、今は何もできず、同じ場面だけを繰り返しているのであれば、
「これは今、問題解決ではなく反芻になっている」
と確認する。
そして、
身体を動かす。
目の前の仕事へ戻る。
誰かと話す。
食事をする。
散歩する。
現在の感覚へ注意を戻す。
考えが再び出てきても構わない。
出てきたら、
「また出てきた」
と気づく。
目標は、
二度と考えないこと
ではない。
考えが現れるたびに、それに完全に連れ去られないこと
である。
「思考を疑う」と、自分を疑うことは違う
認知バイアスという言葉を知ると、
「自分の考えは信用できないのか」
と思う人もいるかもしれない。
しかし、そうではない。
人間の認知には偏りがある。
それは、自分だけではない。
誰にでもある。
したがって必要なのは、
「自分は間違っている」
という新しい自己否定ではなく、
「自分の見方にも限界がある」
という余白である。
自分の考えを持ってよい。
判断してよい。
意見を持ってよい。
ただし、
「自分にはこう見えている」
と、
「世界は必ずこうである」
を同じにしない。
これは他者との対話にも重要である。
自分の認識が絶対ではないと知れば、
相手の見方を聞く余地が生まれる。
そして、それでも自分の考えを選ぶことはできる。
「空」は、判断を放棄する思想ではない。
むしろ、
自分の判断を固定的な絶対物にしないための智慧
として読むことができる。
第5回のまとめ
第5回では、般若心経と現代の認知心理学・心理療法を並べながら、
人間は何に苦しんでいるのか
という問題を考えた。
目の前に出来事がある。
しかし、人間は出来事だけを経験しているわけではない。
その出来事を、
認識する。
評価する。
意味づける。
予測する。
そして、一つの物語をつくる。
その物語が事実に近いこともある。
しかし、ときには、
「そう考えている」
ことと、
「そうである」
ことが混同される。
そこに、自動思考や認知バイアスの問題がある。
また、人間は過去の出来事を頭の中で何度も再生する。
反省が学習につながることもある。
しかし、同じ問いを繰り返し、行動にも解決にもつながらないとき、反芻が現在の心を占領することがある。
そこで重要になるのが、
「考え」と「事実」を分けること
である。
「私は嫌われている」
ではなく、
「いま、『私は嫌われている』と考えている」
と見る。
「私は失敗者だ」
ではなく、
「私は今回、一つの仕事で失敗した」
と事実の大きさへ戻す。
ACTでは、思考との関係を変える認知的脱フュージョンが扱われる。
MBCTなどでは、思考や感情を心に生じる出来事として見る脱中心化が重視される。
これらと般若心経の「空」は同じ概念ではない。
しかし、
自分の思考を自分そのものとしない。
自分の解釈を現実そのものとしない。
一つの感情を人生全体としない。
という問いを通じて、両者の間には重要な対話が生まれる。
そしてここから、般若心経はさらに深い問題へ進む。
私たちの心には、
過去の失敗。
他人から言われた言葉。
失ったもの。
叶わなかった夢。
未来への不安。
自分への評価。
人からどう見られるかという心配。
さまざまなものが「引っ掛かって」いる。
般若心経は、その状態について、
心無罣礙
と説く。
さらに、
無罣礙故 無有恐怖
と続く。
なぜ、心の「罣礙」と恐怖が結びついているのか。
そして、
恐怖がなくなるとは、本当に怖いものが何もなくなることなのか。
次回、この連載の中核となる問題へ入っていく。
次回予告
第6回 「心無罣礙・無有恐怖」とは何か──般若心経に学ぶ不安と恐怖との向き合い方
次回は、
心無罣礙
無罣礙故
無有恐怖
という般若心経の核心的な一節を取り上げる。
「罣礙」とはいったい何なのか。
私たちの心には、何が引っ掛かっているのか。
そして、なぜその先に「無有恐怖」が置かれているのか。
不安。
不確実性。
まだ起きていない未来への予測。
破局的思考。
失敗への恐怖。
病気。
老い。
死。
こうした人間の根源的な恐怖を通して、
「恐怖をなくす」のではなく、「恐怖との関係を変える」とはどういうことなのか
を考える。
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参考文献・関連資料
般若心経・仏教思想
中村元・紀野一義(訳註)(1982)『般若心経・金剛般若経』岩波書店(岩波文庫)。
般若心経の「五蘊」「空」「無所得」「心無罣礙」「顛倒夢想」などの主要概念を確認するための基本資料である。現代心理学との比較に先立ち、まず経典そのものの思想を理解するために用いる。
佐々木閑(2014)『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』NHK出版。
般若心経の成立背景、大乗仏教における位置づけ、「空」などの思想を仏教史の中で理解するための参考資料である。
Thich Nhat Hanh. (2017). The other shore: A new translation of the Heart Sutra with commentaries. Parallax Press.
ティク・ナット・ハンによる般若心経の現代的英訳と解説である。五蘊、空、相互依存的な存在理解などを、現代生活との関係から考える際の参考となる。
84000: Translating the Words of the Buddha. The Heart of the Perfection of Wisdom, the Blessed Mother.
般若心経の英訳、序説、注釈、用語集を収録する学術的オンライン資料である。
マインドフルネス・心理療法・メンタルヘルス
Kabat-Zinn, J. (2013). Full catastrophe living: Using the wisdom of your body and mind to face stress, pain, and illness (Rev. ed.). Bantam Books.
Mindfulness-Based Stress Reduction(MBSR)の基礎となる代表的文献である。現在の経験に注意を向け、思考や感情との関係を考える現代的実践を理解する際の参考となる。ただし、MBSRと般若心経を同一視するものではない。
Segal, Z. V., Williams, J. M. G., & Teasdale, J. D. (2012). Mindfulness-based cognitive therapy for depression (2nd ed.). Guilford Press.
Mindfulness-Based Cognitive Therapy(MBCT)の代表的文献である。思考や感情を自分自身と同一視せず、「起きている心理現象」として観察する脱中心化(decentering)の考え方は、本稿で扱った「考えと事実を分ける」というテーマを考えるうえで重要である。
Hayes, S. C., Strosahl, K. D., & Wilson, K. G. (2011). Acceptance and commitment therapy: The process and practice of mindful change (2nd ed.). Guilford Press.
Acceptance and Commitment Therapy(ACT)の代表的文献である。アクセプタンス、認知的脱フュージョン、現在への注意、自己、価値、コミットされた行動などからなる心理的柔軟性のモデルを提示している。「思考は事実そのものではない」という視点を般若心経と比較するときの重要な資料である。
※本稿では、五蘊を現代認知心理学の情報処理モデルと同一視していない。また、「空」を認知療法、認知的脱フュージョン、脱中心化などの心理技法と同一視するものでもない。般若心経と現代心理療法は、歴史、目的、理論的背景、実践方法が異なる。両者の違いを保ったうえで、「人間は自分の考えをどこまで現実そのものとして受け取っているのか」という共通の問いを考えることが、本稿の目的である。
また、強い抑うつ、不安、PTSD、解離症状、自殺念慮などがある場合には、セルフケアや宗教的実践だけで対処しようとせず、医療機関や適切な専門家への相談が必要である。