丙午の2026年──恐怖の年ではなく“設計”の年:安岡正篤文字学が示す国家・企業・個人の再構築

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丙午の2026年──恐怖の年ではなく“設計”の年:安岡正篤文字学が示す国家・企業・個人の再構築

はじめに

令和8年(2026年)。干支では丙午(ひのえうま)にあたる年である。日本では古来、丙午には「激しく燃え、世の中が荒れる」といった言い伝えが残り、ときに恐れや忌避の対象として扱われてきた。しかし、本来の干支は未来を脅かす不吉の象徴ではなく、時代の変化と構造を読み解く“思想のレンズ”である。恐れるためではなく、見抜くために存在する言語体系である。安岡正篤が重視した文字学や易学、東洋古典の読み解きにおいて、干支とは外界の出来事に宿る法則性と、人間の内面変化の相互作用を観察するための「思考ツール」であった。占いでも予知でもなく、思索と思考の技術である。

2026年は恐怖の年ではない。むしろ、恐怖という言葉に縛られた瞬間、火は制御を失う。丙午とは破壊の力ではなく、照らす力である。照らされたことにより、隠されていた課題、先送りしてきた選択、曖昧なまま据え置かれた領域が、“見えるようになる年”なのである。見えるようになるとは、選べるようになるということである。選べるとは、未来を設計できるということである。設計できるとは、恐れよりも意志が先に立つということである。

2025年の干支「甲辰(きのえたつ)」は、潜在していたエネルギーが姿を現し始める周期であった。新技術・政治対立・社会制度疲弊・働き方改革の歪み・AI倫理問題──いずれも“変わらなければいけない理由”は多くの人が理解していた。しかし同時に、“どの方向に変えるべきか”の指針は定まらず、焦燥と停滞が同居する一年であったと総括できる。それは日本だけではなく、世界でも同様の傾向が見られ、米中関係、台湾海峡、ウクライナ、エネルギー地政学、通貨覇権、AI規格競争など、どの火種も「臨界まで残り数歩」の状態で停滞したと言える。

そして2026年。丙午は「火」。火とは、臨界点を照らし、境界線を示し、取捨選択を迫る。火は、怖れられるべき対象ではなく、決断を先送りできない地点を示す“赤線”である。本記事は、丙午を「破局へのカウントダウン」ではなく、「選択と設計へのリミットライン」として読み解く。

本記事は、日本・世界の政治、経済・産業、社会・制度、企業・経営、個人・心理という五つの層から2026年を考察する。これらは別々に存在するテーマではない。国家の制度疲弊は、企業の経営課題に直結し、企業の判断軸は個人の心理負荷に投影される。2026年は、レイヤーが分離できない年である。国家・企業・社会・個人のどこか一カ所だけに“火を消す対応”をしても、他方から再び火が回り込む。だからこそ必要なのは、消火活動ではなく設計図の再作成である。

丙午の火は、弱い場所を焼かない。未整理の場所を焼く。未整理とは、言語化されていない領域である。言語化とは、防火壁であり、地図であり、羅針盤である。自分の生活圏・職場・国家・未来を、自分の言葉で説明できる者は燃えにくい。逆に、説明できない場所から火が入る。火とは、理解不能の状態に入り込む。理解できる場所には、火は居場所を失う。

この記事は、火を恐れる者のためではなく、火を連れて行く者のために書かれている。逃げる必要はない。しかし、立ち止まる理由を言語化せよ。不安は悪ではない。だが、不安を放置してはいけない。火の年に必要なのは、“勇気”より先に、設計である。

2026年は、国家にとっても、企業にとっても、そして読者自身にとっても、「あなたは何のために存在するのか」という問いを避けられない年になる。この問いは、重い。しかし、祝福でもある。存在理由を問われることは、存在がまだ失われていないという証明である。

この「はじめに」が、読者が文章の奥へ進むための灯台となり、2026年を“恐怖の年”ではなく“設計可能な年”へと書き換える入口となることを願っている。

序 章 丙午の年を迎えるにあたって──「燃える時代」を誤読しないために

私たちは、単なる暦の更新ではなく、「時代の気配が変わる音」と向き合っている。令和7年(2025年)の干支についてのブログ記事では、甲辰という象意から、芽吹きと試練、調和と矛盾の同時進行という時代の相貌を分析した。甲辰の年は、表面的な成長や制度改革の裏側で、社会の根の浅さが露呈する現象が目に見える形で現れた一年であった。そして今、令和8年(2026年)丙午を前にした私たちは、その「露呈したもの」が一過性の課題として流れ去るのか、それとも日本社会や世界全体を揺り動かす深層の構造変化の兆候であるのかを、冷静に読み解かなければならない。

丙午(ひのえうま)という干支は、一般に「激しい」「燃える」「破壊的」などのイメージと結び付けられやすい。しかし、安岡正篤文字学の視座に立つならば、本質はもっと精妙である。丙の「炎」は、ただ燃えるのではなく、曖昧を照らし、隠れていたものを顕現させ、選択を迫る光である。午は、太陽が天頂に達する象徴であり、極致において陰陽が反転する臨界点である。つまり、丙午とは「照らし出される臨界点」であり、その年に生じる出来事は偶然ではなく、過去の選択の総決算として現れる可能性が高いのである。私たちは、火に怯える必要はない。だが、火の本当の姿──照らし、温め、浄化し、時に焼き尽くすという両義性から目を背けてはならない。

本稿は、令和7年(2025年)の干支についてのブログ記事で提示した「甲辰=芽吹きと試練の年」を出発点とし、その成果と矛盾を、政治・経済・社会という三層構造で振り返ることから始める。それは単なる回顧ではなく、丙午がどこに火をつける可能性があるのかを知るための地形図作成作業である。そして、過去の丙午(1966年/1906年)の歴史的文脈が、現代と奇妙な相似形を描いていることを明らかにする。高度経済成長の歪みが生まれ、国家の制度と社会の情緒のズレが激化した昭和41年(1966)。帝国形成の疲弊と国民生活の現場の負担が限界に近づいた明治39年(1906)。この二つの年はいずれも、「国家と民の心理の間に蓄積した誤差が表面化した年」である。

そして、この誤差は現代日本にも確実に存在する。人口減少、高齢化、地域衰退、産業空洞化、AI社会への心理的未対応、統治機能の劣化、外交戦略の遅れ──これらを「炎」に触れさせたとき、何が燃え、何が浄化されるのか。本稿は、その可能性とリスクを読者と共に探求するための思索の旅である。しかし、それは悲観ではない。火は破壊と創造の両面を持つ。必要なのは、恐れではなく、丁寧な観察と、燃やすべきものと残すべきものを選別する知性である。

丙午の年は、個人にも影響を与える。家庭、人間関係、キャリア、健康、価値観。火は外界だけでなく、内側の炎──すなわち情熱・怒り・喪失・再決意を揺り動かす。ある者にとっては再出発の年となり、別の者にとっては積み上げてきたものを見直す契機となる。だからこそ本稿は、国家・世界というマクロの話だけでなく、読者一人ひとりの人生における「火の扱い方」へと踏み込む。国家にも人生にも共通する法則がある。それは、火は放置すれば暴走するが、正しく囲われれば未来を照らすということである。

読み進めるうち、あなたは気づくだろう。本稿が提示する「丙午の火」とは、単なる予測でも教育でもなく、自分自身の中にある火との対話であることに。時代は燃える。しかし、あなたが燃え尽きる必要はない。燃えるのではなく、燃やす存在となるために、まずは2025年の構造把握から始めよう。

第1章 令和7年(2025年)甲辰の総括──芽吹きは本物だったか

令和7年(2025年)。干支における「甲辰(きのえたつ)」は、木の大樹が幹を伸ばしつつ、地中の根がまだ十分に張り切らない状態で外へと成長圧力を得る象意とされる。令和7年(2025年)の干支についてのブログ記事において、私は甲辰を「芽吹きと試練の同居」と定義し、特に政治・経済・社会の三層がそれぞれ異なる位相で「成長と破綻の境界線」を踏みしめていると指摘した。では、2025年の現実はどうであったか。本章では、国家・企業・個人がこの一年に直面した構造的変化の兆候を読み解き、2026年(丙午)への橋渡しとして、どの領域に“火”が移りやすいのかをビジネスリーダーの視点から整理する。

1−1 政治──「未完の秩序再編」としての2025年

2025年の政治は、国内外ともに「方針は示されたが、実行力の裏付けが弱い」状態であったと言わざるを得ない。日本国内では、防衛費増額・経済安全保障・AI社会への制度対応など、国家として避けて通れない政策群が提示されたものの、その多くが“宣言型”政策に留まり、実装段階での官僚機構の能力不足・省庁縦割り・利害調整の遅滞によって、肝心の“政策駆動力”が生まれなかった。甲(幹)は伸びようとするが、辰(震)は土台を揺らす。この象意通り、国家機能は前進の意志と制度疲労のギャップに晒され続けたのである。

国外では、米国の対外政策が「再構築」から「再配分」、そして「選別」へと段階的に移行しつつあり、同盟・通商・軍事の優先順位が静かに塗り替えられた。ビジネス領域においても、米国市場への依存度が高い日本企業は、サプライチェーンの再設計、為替変動、デュアルサプライ化への判断を迫られ、“待っていれば元通りになる” 時代が終わったことを痛感する一年であった。他方、中国は表面的な経済回復の指標とは裏腹に、国内消費の伸び悩み、青年層の失業率、知識層の国外流出といった心理的崩落現象が加速し、数字に出ない地盤沈下が進行した。この「二大国の不安定化」の狭間で日本は、自立的な国家戦略を構築できたとは言い難い。国家の舵取りは、甲辰に求められた“根を張る作業”を完遂できず、2026年に課題が繰り越されたのである。

1−2 経済──「金利正常化後の現実」と向き合う

経済領域において、日本企業が最も向き合わねばならなかった課題は、“金利正常化後”の世界である。超低金利という長期的な安全毛布を失った企業は、調達コストと収益モデルの見直しを余儀なくされ、財務基盤の弱い中堅企業では、この政策転換が“静かな倒産リスク”となって現れ始めた。加えて、AI投資を回避してきた企業と、DXを本気で進めた企業の格差は、2025年に入り可視化から固定化へ進んだ。甲辰は「表層の成長に内側が追いつかないとき、ほころびが現れる」象意であり、2025年の日本企業はまさにそれを体現した。

グローバル市場においては、AI・量子・バイオ・脱炭素・半導体といった戦略産業の競争環境が激化し、“国家×企業”の一体化が進むなか、日本は依然として「産業政策の言語」と「経営者の言語」が嚙み合っていない。経営者の多くが、“将来の利益”ではなく“今期の安全”を優先する心理状態にあり、これは甲辰が象徴する“挑戦の先送り”である。しかし、丙午の年は、この先送りを許さない。火は、曖昧に積み上げられたリスクを容赦なく炙り出す。2025年は終わったのではない。2026年から見れば“まだ始まってもいない”のである。

1−3 社会──心理的疲弊と修羅場の兆候

2025年の日本社会を象徴する言葉を一つ挙げるならば、それは「心理的摩耗」である。働き方の改革は進み、制度的には“柔軟性”が拡大した。しかし、それは現場での責任の所在を曖昧にし、従業員の内面に「誰のために働いているのか」「何に向かっているのか」という目的喪失の感覚を生み出した。メンタルフィットネスの重要性は叫ばれたが、休息とスキル更新、内的動機と外的評価の調整といった心の経営が追いつかず、燃え尽き(burnout)と凍結(freeze)という二極化が進んだ。

グローバルビジネスリーダーにとって、この現象は決して個人心理の問題に留まらない。組織文化、採用・育成、離職率、ブランド価値、イノベーション能力——全てが心理的安全保障(Psychological Safety)と連動している。2025年は、企業が「心理的資本」を持つか否かが、財務諸表に表れない形で企業体力を左右する段階に入ったことを示している。そして、丙午はこの心理的資本の“耐火性能”を問う年となる。火は心にも入る。だからこそ、2026年は個人と組織の心理の整備を先送りした者から燃え始めるのである。

1−4 総括──2025年は「変わる準備」の年であった

以上の3領域を横断的に見れば、令和7年(2025年)は「変わった年」ではなく「変わらざるを得ない準備が整った年」である。甲辰は“支度”であり、“覚悟の前夜”であった。国家は制度疲労に、企業は競争環境の再定義に、個人は心理とキャリアの臨界に直面した。そして2026年、丙午。火は、準備なき場所から侵入する。だが、準備された場所では、火は光となり、熱となり、前進の推力となる。

丙午の年は、2025年に芽吹いた芽のうちどれが燃え、どれが実るのかが判定される一年である。これは恐れるべき審判ではない。むしろ、放置してきた課題に光が当たり、進むべき道が鮮明になる年である。国家にも企業にも人生にも、曖昧が許されない一年が来る。だからこそ次章では、文字学という「火の取扱説明書」から、丙午を読む。

第2章 丙午の文字学──火は破壊か、浄化か

丙午(ひのえうま)という干支を理解する鍵は、単に象意として「火」「激しさ」「変化」などを想起するだけでは不十分である。安岡正篤文字学の態度は、象徴の断片的理解ではなく、文字が成立する背景・形象・陰陽五行との関係・歴史的用例を重ね読みすることで、そこに潜む「時代と人間の法則性」を掘り起こすことにある。したがって、丙午の読み解きは、ビジネスリーダーが年度計画や経営戦略を策定する際の「情勢認識の補助線」として活用されうる。火を恐れるのではなく、火の出所と流れ方、火がつきやすい場所と材料を見抜く知性こそが、この年を読み解く実践知である。

2−1 丙──炎が立ち上がる文字の形象

「丙」という文字は、甲骨文字・金文などの古代字形において、幕屋が開かれ内部の光が外に放たれる形を示すとされる。包まれていたものが開示される、隠されていたものが露出する、抑制されていた熱が外界に流れ出すといった象徴作用を持つ。五行においては陽の火であり、陰に対する表層・顕現・宣言・発動を意味する。この「外へ出る力」は、国家なら外交・軍備・政策主張、企業であればビジョンの公表・市場参入・新規事業、個人であれば転職・独立・家族の意思決定といった“外に向かう主体性”として現れる。

ただし、丙は「燃え盛る火」だけではない。丙の火は灯りでもある。灯りは周囲を照らすが、同時に照らされた側もまた自らの影を意識させられる。したがって丙の年には、国家であれ企業であれ、人間関係であれ、自身の影──すなわち解決してこなかった問題、未処理の葛藤、棚上げされた計画や組織の膿──が露呈しやすい。火が問題を作るのではない。火は、既にあった問題に光を当てるだけである。ゆえに2026年は、「問題が発生する」のではなく「問題が見える化する」年であると理解すべきである。

丙の年に成功する者は、「火に照らされたときに即座に行動を修正できる者」であり、丙の年に倒れる者は、「火を消そうと水を撒くが、根本原因である可燃物を片付けない者」である。ビジネスの現場で言い換えるなら、2026年のキーワードは可燃物の棚卸しである。業務、組織、財務、人材、理念、取引先──燃えやすいものを先に処理する者だけが、火を光に変換できる。

2−2 午──頂点は転換点である

「午」は十二支の中央に位置し、太陽が天頂に達する象徴であり、陰陽の転換が起こる定点である。暑さが極まり、これ以上は上がらないという天の飽和点を示す。飽和は安定ではない。飽和は変化の前兆である。したがって午は、繁栄・成功・発展と同時に、飽和・転落・反転の可能性を内包している。

午(うま)は速度と方向性を象徴するが、同時に「走ることに没頭し、周囲を見失う危険」をも孕む。2026年における企業経営で最も危険なのは、“走り続けることが成功の証”という誤解である。午の年に求められるのは、速度ではなく方向の再設定であり、拡大ではなく軌道修正である。丙午という組み合わせは、「拡大と修正が同時に求められる矛盾の年」であり、ここに本質的な難しさがある。

午はまた、「戦」と通じるとする解釈もある。これは好戦性を意味するのではなく、戦いを避けられない状況、つまり優先順位の明確化、リソース再配分、撤退戦、縮小戦略の決断が求められる局面を意味する。ビジネスリーダーにとっての「戦」とは、敵対行為ではなく、選択と集中という“戦略行為”である。午はこの戦略行為を迫る。

2−3 丙午の組み合わせが示す「照らされた臨界」

丙の開示、午の飽和。この二つが重なる丙午は、以下の現象を引き起こしやすい。

  • 隠されていた矛盾の顕在化
  • 成長路線の限界値が露呈
  • 拡大より再編が合理的になる
  • 旧来の成功法則の陳腐化
  • 内部の組織文化が外から見える
  • 成熟産業での新陳代謝が本格化
  • 価値観の摩擦による対立・離反
  • “人”が最大のリスクにも資産にもなる

丙午の象意を正しく理解する鍵は、破壊ではなく“選別”である。破壊のように見える出来事の多くは、実際には選別の過程である。腐った枝を切ることは破壊ではない。未来に栄養を回すための手術である。

ゆえに2026年は、国家も企業も個人も、「何を切るか」が「何を創るか」と等価になる。
切れない者は、切られる。
捨てられない者は、捨てられる。
選べない者は、選ばれない。

2−4 火は破壊か、浄化か──丙午に問われる心の構造

火は容赦がない、とよく言われる。しかし正確には、容赦がないのは火そのものではなく、火に晒されたときの“自己認識”である。破綻した事業、機能しない人事制度、形骸化した理念、離反が続く組織、家庭内の対立、人生の空虚感──これらは火によって生じるのではなく、火によって見えるようになるのである。

では、火によって破壊されないためにはどうすればいいのか。結論は、「燃える前に燃やす」ことである。先に燃やすべきものを、意図的に燃やす。構造的疲労を、自らの意思で焼却処理する。習慣・関係・制度・商習慣──自己破壊の先取りが自己保存になる。

安岡正篤は、「人間は己を知ることによって安定する」と述べた。丙午においてはこの言葉が文字通りの意味を持つ。己を知らぬ者は、火によって己を知ることになる。己を知る者は、火を道具とすることができる。2026年は、自己把握力が最大の競争優位性になる年である。自社・自組織・自分自身のどこが可燃性なのかを知る者だけが、火の年を航海できる。

第2章まとめ(読者のための要点整理)

  • 丙は開示。午は飽和。丙午は開示された飽和。
  • 火は問題を生むのではなく、問題を照らす。
  • 破壊のように見える現象の多くは選別である。
  • 経営も人生も、2026年に必要なのは可燃物の棚卸し
  • 火に怯える必要はない。燃やす覚悟が先にある者が勝つ

第3章 歴史に現れた丙午──1966/1906/他の相似形

丙午という年を単なる迷信や一般的通念として片付けてしまうと、歴史が教えてくれる「時代の臨界の到達点」という本質を見誤る。歴史における丙午は、偶然にも国家規模の転換点、価値観の再編、産業構造の再設計、そして心理的混乱の顕在化といった、“照らされた臨界”が繰り返し現れている。これは霊的予言でも占いでもなく、社会システムの飽和が象徴的に同じ周期で表面化するという事実の問題である。丙午とは、システムの末端が焼ける年ではなく、中心に積み上げてきた歪みが表に出る年である。国家レベルの経済であれ、企業の組織構造であれ、個人の心理構造であれ、それぞれが「積み残した宿題」を燃えやすい状態で抱えて迎える年が丙午なのである。

3−1 1966年(昭和41年)──高度経済成長の影が輪郭を持ち始めた年

1966年の日本は、表面的には繁栄と期待に満ちた一年であった。名目GDPは前年比10%を超える勢いで急伸し、国鉄・高速道路・電話網・エネルギー供給などの巨大インフラ計画が進行し、オリンピック後の余熱が社会全体に残存していた。しかし、真実の1966年は、高度成長モデルの限界が静かに姿を現し始めた年である。地価高騰、都市部の住宅不足、地方の過疎化、交通網飽和、公害の兆候、医療と教育の地域格差——これらは後に1970年代の構造不況へとつながる「未処理の可燃物」であり、丙午の火はその存在を輪郭として浮かび上がらせた。象徴的なのは、社会が“成長そのものが正義”であるという前提を疑い始めた点である。未来への焦燥と、足元の違和感。これはまさに丙午の本質に近い。

グローバルビジネスリーダーにとって重要なのは、1966年の日本に起きたことが現代にそのまま当てはまるという単純比較ではなく、成長のコスト構造が心理化する瞬間にこそ丙午の火が起きやすいという理解である。1966年の日本企業は、競争と拡大に成功したがゆえに、人的負荷・社会的負荷・心理的負荷という見えないコストが蓄積され、それが後年、医療費高騰・年金問題・産業構造疲弊・教育機会格差・地域衰退という「後払いの請求書」となった。2026年の日本もまた、拡大と改革の名の下で積み残してきた心理的負債が、組織疲労・政治不信・世代摩擦・AI社会への抵抗感として顕在化し始めている。1966年を学ぶことは、丙午を恐れるためではなく、丙午を予防線として用いるための知である。

3−2 1906年(明治39年)──帝国システムの疲弊と再配分の予兆

1906年は、日露戦争終戦の翌年であり、日本は勝利したがゆえに国家負担と国民負担が増大するという「勝利の代償」に直面した年である。軍備膨張、賠償金期待の挫折、財政悪化、産業界の集中度増大、労働者階級の不満、韓国統治政策の加速、情報統制の強化——いずれも「国家の形を変えなければ維持できない」局面であった。丙午の火は、勝利の狂騒ではなく、勝利に潜む構造疲労を照らしたのである。

現代の2026年への示唆は深い。日本は戦争に勝ってはいないが、「平和経済モデル」が限界を迎えている。安価なエネルギーと豊富な労働人口と安定した社会秩序に依存した経済モデルは既に成立しない。AI・地政学・人口流動・エネルギー安全保障という新しい環境では、明治後期のように、国家と企業の役割分担の再定義が必須となる。つまり、企業が担うべきはもはやGDP上昇の推進ではなく、雇用・心理的資本・知的インフラの再生と供給である。1906年の「帝国の再配分」は、2026年における「国家的持続可能性の再配分」と重なり、政策と経営は別々に存在できない局面に入る。

3−3 「丙午=出生数減少」という迷信と、日本社会心理の“記憶”

丙午という言葉に負のイメージが付着する理由の一つに、「丙午生まれの女性は夫を不幸にする」という迷信が昭和2年(1927年)頃から流布し、1966年の出生数が実際に大幅減少したという歴史的事象がある。しかし、これは迷信の影響というより、日本社会が「目に見えないリスクを個人属性に帰属させる文化」を持っていたことの証明である。社会問題を“誰かの特性”や“属性”に押し付ける文化は、現代にも残っている。「Z世代は忍耐力がない」「外国人材は文化摩擦を起こす」「AIは人間を置き換える」——これらは迷信と構造が同じである。丙午は、この構造的責任回避を照らす。

ビジネスリーダーに問われるのは、迷信の否定ではない。迷信に代わる、構造的理解の言語を創り直すことである。データ、心理学、現場観察、戦略言語。2026年、迷信でなく設計が必要である。

3−4 相似形としての現代──2026年に火が走りやすい領域

歴史の文脈を踏まえると、2026年において火が走りやすい領域は以下の通りである。

領域

火が走る起点

火が燃え広がる構造

火を光に変える鍵

国家戦略

安全保障×経済の未統合

政策設計と実装の断絶

指揮系統の再定義

企業経営

AI投資・人材育成の後回し

現場疲弊と意思決定遅延

権限委譲と心理的安全

労働市場

キャリア不確実性の増大

不安と分断の伝播

生涯学習と再スキル設計

家庭・個人

感情の棚上げ

関係性の燃焼

対話と境界線の設定

社会心理

攻撃的言説の増加

集団同調圧力

言語の更新と心理教育

→ 結論:火は弱い場所ではなく、“未整理の場所”から燃える。

第3章まとめ

  • 1966/1906年は、ともに「成功の代償」が照らされた年
  • 丙午の火とは、破壊ではなく照明装置
  • 焦点は「恐怖」ではなく棚卸し
  • 歴史は繰り返さないが、構造は繰り返す
  • 2026年は、消耗戦ではなく選別戦

第4章 2026年 世界情勢を読む──丙午の地政学

丙午(ひのえうま)という年を世界情勢の観点から読み解くとき、最も重要なのは「動乱の予測」ではなく、「紛争・衝突・対立が“見える化”する力学」に注目することである。地政学における火とは、比喩ではない。供給網、通商路、エネルギー、データフロー、AI規格、金融、サイバー領域——これらが摩擦し、摩擦は熱となり、熱は火になる。2026年は国家間の覇権争いという抽象論ではなく、“燃えやすい構造”に具体的に火が入りやすい年である。これは歴史の再現ではない。むしろ歴史に新たな章が書き足される局面であり、丙午はそのページをめくる火元になる。

4−1 米国──「選別の年」としての2026年

米国は2026年、外交・経済・安全保障政策において、同盟国を「支援対象」ではなく「投資対象」として扱う傾向を強める。これは同盟の弱体化ではない。むしろ、成果に基づく同盟形態への移行である。
「援助ではなく、リターンを求める」
「協力ではなく、成果の証明」
「安全保障ではなく、相互投資」
この再定義は、日本にとって都合が悪いのではない。むしろ、これまでの“依存型国家戦略”を抜け出す機会である。

しかし、ここには火がある。日本の最大のリスクは、自立と従属の狭間で方向性を決められないことである。米国は日本に「YES/NO」の選択を迫る局面が増える。半導体調達先、AI規格準拠、サプライチェーン再構築、軍事支援、国際制裁── この選択が曖昧なままだと、2026年の丙午は、「火がついてから走る日本」ではなく「火を消しながら後退する日本」になりうる。

ビジネスリーダー向けに言えば、2026年は国家戦略と企業戦略が乖離した企業ほど燃える年である。国家と企業が同じ方向を見ないと、世界はその企業を信用しない。信用されない企業は、市場から退場を迫られる。

4−2 中国──「成長の影」と台湾海峡の臨界

中国は2026年、成長率よりも国家統合・社会安定・地域覇権の確保に政策軸を移し始める可能性が高い。AI社会信用システムの強化、国内市場囲い込み、消費主導から公共投資型成長への揺り戻し、海外進出企業への政治的統制強化など、“自由市場の皮を被った統制経済”への傾斜はほぼ不可逆である。

台湾海峡情勢は、戦争の可能性ではなく「膠着の熱」が最大のリスクである。戦争は起こらない方がよい。しかし、戦争が起こらなければ安全なのではない。「戦争にならないギリギリの緊張」を長期間維持することこそ、サプライチェーンと金融市場に最も負荷を与える。これが丙午の火だ。燃えないが、熱い。熱いのに、動けない。動けない企業から、崩れる。ここで問うべきは、「中国市場撤退」か「残留」かではない。“依存の再設計”ができるかである。撤退は戦略ではない。残留も戦略ではない。戦略とは、複線化・再設計・可燃物の隔離である。

4−3 EU──安全保障とエネルギーの統合化

EUは2026年、NATOとエネルギー政策の接続を加速する。エネルギー政策はもはや産業政策ではなく、軍事政策の一部である。再生可能エネルギー/原発延命/液化天然ガス受け入れ能力/ロシア依存脱却── 全てに「安全保障」の文脈が接続され、断片的最適化が拒否される局面が来る。

日本企業、とりわけ製造業・化学・素材・半導体関連は、EU市場での存在証明を求められる。ESGの形式的遵守ではもはや足りない。自社製品が・民主主義陣営の価値観に資するか軍民転用リスクがないかエネルギー供給リスクに耐えるかという質問を、顧客と投資家から突きつけられる。

2026年は、「売れるか」ではなく、「売ってよいか」を問われる年である。この変化に気づけない企業から、市場は静かに離れる。

4−4 ASEAN/インド──「第三極」の台頭と日本の遅刻

ASEANとインドは、2026年に「人口×市場×政治安定」の三点セットで世界経済の新たな焦点となる。しかし、日本企業の多くは依然として“検討段階のまま時が過ぎる”という病を引きずる。丙午は遅刻に厳しい。遅れる者が燃える。

ASEANでは、国家ごとにAI規制・税制・投資優遇策が細分化し、“一括東南アジア戦略”が通用しない時代になる。インドは、IT人材の供給源としてではなく、AI社会のルールメーカーとして台頭し、国際会議体で存在感を増す。日本企業がインドを「場所」ではなく「パートナー」として見られるかどうかが、2026年の決定的分岐点となる。

4−5 サイバー/AI覇権──「燃えない場所は存在しない」

サイバー空間は2026年、火の通り道になる。国家間対立、サプライチェーン攻撃、AIによるフェイク生成、認証破壊、金融ハッキング── 「戦争」と呼ばれなくても、被害規模だけ見れば戦争である。そしてこの戦いの最前線に立つのは、政府ではなく企業である。企業が最前線に立つ戦争。これこそが丙午の地政学の核心である。

AI覇権争いでは、「AIの精度」より「AIの倫理設計」が国際市場の通貨になる。アルゴリズム説明責任、学習データの透明性、バイアス対策── これを持たない企業から、契約が切られる。企業は2026年、AI倫理の輸出業になる覚悟が必要である。

第4章まとめ(実務指針)

2026年に燃えやすい企業の特徴:

  • 可燃物(未処理領域)の所在を説明できない
  • 国家戦略と企業戦略が乖離している
  • 中国依存の再設計が進んでいない
  • サイバー/AI倫理が後回し
  • ESGをブランド装飾と誤解している
  • ASEAN/インドとの対等関係を構築していない

逆に、2026年に光を放つ企業の条件:

  • 戦略が地政学と言語化で接続されている
  • 依存先は単純化でなく複線化
  • 可燃物の棚卸しが完了している
  • AI倫理を契約交渉の武器にできる
  • 心理的安全性を人材インフラとして扱う

第5章 2026年 日本社会の臨界点──丙午の火はどこから内部に入るのか

丙午の年(2026年)を迎える日本社会にとって、最も危険なのは「国家崩壊」でも「戦争」でもない。最大のリスクは、社会全体の継続的な“内側からの燃焼”が止まらない状態、すなわち“静かな焼失”が進むことである。外圧やショックイベントよりも、むしろ社会の機能不全がじわじわと常態化する現象こそが、日本にとって致命的な火となる。丙午の火は、炎となって激しく燃え上がるというより、隠れていた問題の可燃性を露呈させ、そこに記憶されていた熱=未処理の感情・疲弊・忌避が酸化するように火を帯びることで進行する。その起点は、社会インフラ・官僚組織・医療教育制度・メンタルヘルス環境・家庭・地域社会といった、“個人が依存せざるを得ない場所”に集中する。この章では、国家社会の臨界が「どのように個人の生活・企業の現場に火を運んでくるか」を読み解く。

5−1 医療──「国民の生命線」がボトルネック化する

医療制度は2026年、地域偏在・医療従事者不足・高齢者集中・診療報酬制度の歪みが一気に可視化する年になる可能性が高い。医療は火を出さない。しかし、火が入ると止められない構造を持つ。具体的には、感染症や災害が起きなくとも、慢性的な受診難民の増加という形で燃え始める。2026年の丙午の象意は、「照らされた飽和」である。医療はすでに飽和しているが、照らされていない領域が多く残されている。火はそこに入る。

医療崩壊とは病院が閉鎖することではなく、病院にアクセスできない人間が一定割合を超えることであり、その状態は金融危機・経済危機と連鎖する。企業にとって重要なのは、医療危機は人材供給危機であるという理解である。社員の家族ケア、メンタルヘルス対応、介護離職、職場の感染リスク、こうした“個人の生活危機”が人的資本の流出として企業の損失になる。丙午は、制度疲弊の照明である。

5−2 教育──「未来の生産力」が燃え尽きる前に

教育現場では、教員の離職率上昇、処遇格差、ICT導入の遅延、学力格差の拡大、いじめ・不登校の増加が静かな火となって蓄積している。教育は10年単位の遅延が致命傷になる領域であり、2026年に起きるのは「学校の崩壊」ではなく、教育への信頼の崩落である。信頼は可燃物である。一度火がつくと、修復には時間がかかる。

この火は企業にも波及する。日本企業は依然として「即戦力の獲得」を前提とした採用文化を抱えているが、教育危機は人材供給の劣化となり、リーダーシップの不在・適応力の欠如・心理的安全性の欠損として企業運営に直撃する。2026年に、教育と産業が接続できないまま丙午を迎えるなら、火は未来の労働市場に燃え移る。選別されるのは企業だけではない。国民教育そのものが市場に選別される。

5−3 行政・防衛──「指揮系統の火災」が社会全体に影響する

行政機構は、老朽化した制度・縦割り構造・責任所在の曖昧さ・デジタル化の遅滞など、火の可燃物の集合体である。丙午の年においては、この可燃物が「論争」という形で引火する可能性が高い。特に、防衛政策は、“抑止力”という抽象語の下で、自衛隊の運用実態・装備調達・情報共有・同盟国との役割分担が曖昧なまま進行している。火が入るのは「戦争」ではない。“指揮系統の整合性がないことが明らかになる”という形である。

防衛の問題が企業に関係ないと思うのは誤りである。現代の戦争は、物流・通信・金融・データ・AI・認証・SNS──企業インフラを戦場化する。指揮系統の火災とは、国の危機ではなく、企業の危機である。2026年は、防衛政策を経営に翻訳できるリーダーが希少価値を持つ年となる。

5−4 メンタルヘルス──“見えない避難訓練”の必要性

丙午の火は、心理の内部に入りやすい。2025年には、働き方改革の成果と副作用が表出し、個人のアイデンティティの揺らぎや、燃え尽き(burnout)・凍結(freeze)・感情の過剰反応が進んでいる。2026年の火は、これらに酸素を供給する。酸素とは、社会不安・経済不安・キャリア不安・国家不安である。不安は火の燃料である。

2026年、最も危険なのは、「自分の感情の温度を把握できない人間の増加」である。怒り・悲しみ・無気力・焦燥──これらが自己認識されないまま蓄積すると、関係性が燃え、組織が燃え、家庭が燃える。メンタルヘルスとは「火の監視装置」であり、企業にとっては生産性の問題ではなく、存続条件である。
メンタルケアの後回しは、人材崩壊の先取りである。

5−5 家庭・地域社会──火は“回路”を選ばない

丙午の火が最も厄介なのは、伝播経路を選ばないことである。企業から家庭へ、家庭から地域へ、地域から教育機関へ、教育から労働市場へ、そして再び企業へと、火は循環する。2026年は、家族のケア・介護・育児・教育・災害対応が企業経営に直結する年であり、“家族政策は人材戦略”となる。

日本企業の課題は「両立支援」でも「柔軟な働き方」でもない。本質は、“家庭を持つ人間が働ける社会設計”をどう作るかである。これは労務管理ではなく、国家戦略の一部である。丙午は、家と企業の境界を曖昧にする。境界が曖昧なとき、責任の所在が曖昧だと、火は責任を焼き始める。

5−6 企業──逃げる企業、生き残る企業

2026年に最も燃えやすい企業は、「未来が見えない企業」ではない。“未来を描かずに今を延命する企業”である。延命とは、火の中で酸素を待つ行為である。酸素は火を消さない。燃え上がらせる。

生き残る企業は、以下のような特徴を持つ。

  • 国家戦略と整合する自社戦略を言語化できる
  • 依存先の複線化が完了している
  • AI投資と人材育成の優先順位が逆転していない
  • 心理的安全性を「生産設備」とみなしている
  • 市場ではなく「社会課題」を客にしている

丙午の年は、企業に「存在意義」を問う。存在意義なき企業は、火に触れたとき溶解する。存在意義ある企業は、火に触れたとき蒸気機関になる。

第5章まとめ

2026年の日本社会は、火がつく年ではなく、火が見える年。炎上ではなく、照明。破壊ではなく、選別。放置ではなく、設計

第6章 国家と企業の分岐点──安岡正篤の思想で読む「心の経営」とリーダーの責任

丙午(2026年)は、国家と企業に対して「あなたは何のために存在するのか」という根源的な問いを突きつける年である。これは失敗の予言ではない。存在理由の再定義は、危機のときにしかできない。繁栄の只中では、存在理由は“成果の副産物”として見逃され、危機を迎えて初めて“生存条件”として立ち現れる。安岡正篤は、「国家も企業も、人間の自覚の器である」と述べた。器とは、入れ物ではなく、心を支える構造である。器があるから心が暴れない。器があるから火を扱える。器がないと火は暴れる。2026年の火は、器の有無を問う。国家なら憲法と制度、企業なら理念と戦略、個人なら信念と態度。器なき主体は、火を恐れ、火を避け、火に追われ、火に呑まれる。

6−1 国家の役割──「市場に任せる」の限界と再定義

20世紀型の国家は、企業活動を支援し、雇用と税収を確保し、再配分によって社会保障を成立させるという分業モデルを採っていた。しかし2026年の丙午以降、このモデルは機能不全を起こす。AI・地政学・エネルギー安全保障・人口動態の変化により、市場に任せられる領域と任せられない領域の線引きが変わるからである。国家は、単なる「規制者」から「社会環境の設計者」へと役割を移さねばならない。「市場が解決する」ではなく「国家が設計し、市場が実装する」という構造である。

最重要なのは、国家が企業を支配することではなく、国家が企業をアップデートさせる義務を持つという理解である。補助金や規制緩和は点であり、設計思想は線である。線が描けない国家は、点で企業を救えない。よって2026年からの国家戦略に必要なのは、規制緩和の量ではなく、規制の哲学である。哲学なき政策は、火に触れると燃える。哲学ある政策は、火に触れると光る。

6−2 企業の役割──利益は目的ではなく「証明」

安岡正篤は、企業の本質を「経世済民」の一部と捉えた。経世済民とは、世界を治め、民を救うことである。救うとは支配ではなく、機会を生むことである。企業は機会の製造装置であり、利益は機会が機能している証明に過ぎない。つまり利益とは「目的の副産物」であり、存在理由の代替物ではない。

丙午における企業の存在理由とは、以下の問いで可視化される。

  • 我々が生む価値は、誰の何を変えているのか
  • 我々の製品・サービスは、社会課題とどう接続しているか
  • 我々の組織運営は、働く人間の人生とどのように整合しているか
  • 我々の意思決定原理は、心理的安全性を損なわずに成立するか

この問いに答えられない企業は、火に触れた瞬間に存在理由の空洞を露呈する。露呈は炎上ではない。露呈は照明である。照明から逃げる企業に、持続可能性(Sustainability)は存在しない

6−3 リーダーの役割──「火の倫理」を持つ者

丙午の時代におけるリーダーに必要なのは、全てを救う力ではなく、燃やすべきものを選ぶ倫理である。火の倫理とは、破壊の正当化ではない。「破壊することが正しい」のではなく、「残すことが正しい」という基準から逆算して、残せないものを燃やす勇気である。退職勧奨、事業撤退、補助金依存の脱却、取引先関係の再設計、非効率組織の解体──これらは火の技術である。

火を扱う者は、恐れられてはならない。同時に、好かれる必要もない。必要なのは、信じられることである。信頼とは、好感度ではなく予測可能性である。予測可能なリーダーは、火の前で動揺しない。動揺は火の酸素である。

6−4 心理的資本──リーダーにとっての国家予算

国家が税収で未来を買うように、リーダーは心理的資本(Psychological Capital)で未来を買う。心理的資本とは、希望(Hope)・効力感(Efficacy)・回復力(Resilience)・楽観性(Optimism)で構成される心的インフラであり、これが欠損すると、火が入った瞬間に組織が心因的倒産を起こす。心因的倒産とは、財務健全でも人が機能不全に陥り、価値創造が止まる状態である。この倒産は、会計に現れない。しかし現場には現れる。現場に現れるものは、市場に響く。市場が反応するものは、国家に響く。内側の火は、外側に伝播する。

心理的資本を国家予算に喩えるなら、リーダーは「予算編成者」である。何に配分し、何に使わないか。苛烈な改革に予算を、無用な恐怖に予算を与えない。火の時代のリーダーは、心の財政運営者である。

6−5 出処進退──丙午における唯一の「経営判断」

出処進退は、知性と勇気の交差点である。丙午における出処進退とは、火を避けることではなく、火の中に位置を取るという戦略である。火の中に立つとは、燃えるということではない。火の中心に安全地帯を作るということである。火は中心では燃えない。外側にある可燃物が燃える。可燃物を外に、責任を中に。この構造が作れるリーダーは、火の年に生き残る。

安岡正篤は、「去就は人格である」と説いた。去るべきときに去れない者も、居るべきときに居られない者も、いずれ火に追われる。丙午は、「誰がどこに居るべきか」を照らす。

第6章まとめ

  • 国家は設計思想を取り戻す必要がある
  • 企業は機会の製造装置である
  • 利益は存在意義の証明である
  • リーダーは火の倫理を持つ者である
  • 心理的資本は心の国家予算である
  • 出処進退は最大の経営判断である

第7章 読者への実践ガイド──丙午を生き抜くための“心と戦略”の設計図

2026年、丙午(ひのえうま)の年は「恐れる年」ではない。むしろ、これまで先送りしてきた改革や決断のために、“火の力”が味方になる年である。火の年は、準備した者にとっては光となり、未準備の者にとっては脅威となる。ここで大切なのは、火を消すのではなく、火に燃やしてもよいものを選び、燃やしてはならぬものを守るという「識別」の技術である。識別できる者は燃えない。識別できずに抱え込む者が燃える。したがって本章は、読者が自分の領域で何を識別すべきかを明らかにするための指針である。

7−1 【個人】自らを“火から守る”のではなく、“火と共に歩く”

丙午の年に個人が最初に行うべきは、目標設定でもスキル獲得でもない。第一に行うべきは、感情監査(Emotional Audit)である。感情監査とは、喜び・怒り・悲しみ・恐れ・無力感・期待など、自分の内部で燃えうる情動を棚卸し、「どの感情が、どの環境と組み合わさると可燃化するか」を把握する行為である。感情は火の燃料であり、燃料を知らずに火の中を歩くことは危険である。

[感情監査の7項目(簡易版)]

  1. 最近3ヶ月で最も強く感じた感情は何か
  2. それは「誰/何」によって引き起こされているか
  3. その感情は「未来」か「過去」に属するか
  4. その感情に時間的猶予はあるか
  5. その感情に言語は与えられているか
  6. その感情は共有可能/不可のどちらか
  7. その感情は自分の価値観と矛盾していないか

この7つを通して、読者はまず自分の内部にある可燃物を理解する。可燃物の正体が分からなければ、どの環境に身を置こうと火は侵入する。

次に行うべきは、キャリアと人生の再設計(Re-design)である。再設計とは、転職や起業だけを指さない。役割の再定義、職務の再交渉、家族との時間分配の再編、学習領域の変更、健康管理の再投資── つまり、人生の重心を動かすことである。火の年におけるキャリア戦略の核心は、「キャリアを守る」のではなく「キャリアを更新する」ことにある。守る者は消耗し、更新する者が生きる。

7−2 【組織】火を光に変えるPDCA──365日の運転計画

企業・組織における実践は、まず“火の侵入口”の特定から始まる。侵入口は多くの場合、制度や戦略の欠陥ではなく、以下のような心理的隙間である。

  • 「誰が決めるのか分からない」意思決定の空白
  • 「誰が責任を取るのか分からない」所有権の空白
  • 「誰のための仕事か分からない」目的の空白
  • 「何が正しく評価されるか分からない」価値の空白

火は制度の隙間を狙わない。火は心理の隙間を狙う。したがって、組織の火災対策は防火壁(規定)ではなく、風の流れ(心理)の管理である。

[組織版:火を光に変えるPDCA]

  • P(Plan):可燃物の棚卸し(事業/人材/財務/文化/依存先)
  • D(Do):先に燃やす(撤退・見直し・役割再設定)
  • C(Check):心理的温度測定(会議の呼吸/関係の温度/離職予兆)
  • A(Act):光への転換(成功の形式知化/学習の制度化/役割最適化)

このPDCAは、事業成長のためではない。火の侵入経路を可視化するための診断回路である。診断なき改善は、暗闇で手探りをする行為であり、丙午においては高確率で炎に触れる

7−3 【国家・社会】傍観者ではなく“設計者”としての市民

丙午の年において、市民一人ひとりが最も避けるべき状態は“傍観者”である。傍観とは現実を拒否する行為であり、拒否は火の酸素である。市民は評論家ではなく、設計者として存在できる。設計者とは、政策の全てを理解する者ではない。設計者とは、自分の生活領域から国家に逆算して考えられる者である。

国家の機能不全は、常に市民の生活領域に投影される。医療なら家族、教育なら子供、経済なら職場、防衛なら物流と金融、外交なら価格と供給不安── 国家問題は常に個人の生活圏で燃える。だからこそ、市民は傍観者ではいられない。2026年に求められるのは、国家に依存するのではなく、国家を設計する視線の獲得である。

7−4 2026年を前にやるべき“100の棚卸し”(抜粋)

読者がすぐに行動に移せるよう、100項目のうち代表的20項目を記載する。
(※全100項目PDFダウンロード

【個人】

  1. 感情監査
  2. 健康の再定義(睡眠・腸・神経系)
  3. 交友関係の棚卸し
  4. 収入源の複線化
  5. 学習領域の更新
  6. 家庭内の役割契約の再確認
  7. 災害時行動計画
  8. 感情と言語の接続

【職業/キャリア】
9) 職務記述書の自己更新
10) 認知負荷の分析
11) 不要なスキルの除却
12) 未来の職能のプロトタイプ設計

【組織】
13) 依存先の再設計(顧客/仕入れ/金融)
14) 人材ポートフォリオの更新
15) 心理的安全性の仕組み化
16) AI投資の優先順位の見直し
17) サイバー防衛の委譲設計
18) 役割再設定と権限委譲

【社会/国家】
19) 選挙制度と自分の生活の接続点の理解
20) 税金と地域インフラの因果の理解

→ 100項目の目的は、“自分の領域でどこに火が入りやすいか”を言語化できる状態にすること。言語化できる者は燃えにくい。言語化できない者は燃えやすい。火は、自分を説明できない者を選ぶ。

第7章まとめ

  • 丙午は「恐れの年」ではなく「識別の年」
  • 燃やす/残す/守る/更新するの4分類が鍵
  • 感情監査・再設計・棚卸しが火の防壁
  • 傍観者から設計者へ
  • 国家問題は生活圏で燃える
  • 火は自分を説明できない場所に入る

終 章 「火の年」を越えた先──丙午を生きた者に訪れる“新しい秩序”

丙午(2026年)を越えた先に広がる世界は、破局でも混乱でもない。火の年を正しく生き抜いた者には、新しい秩序と設計原理が見えてくる。それは国家にとっては政策の再定義であり、企業にとっては事業の再設計であり、個人にとっては生き方の再選択である。火は破壊の象徴ではなく、淘汰の媒体である。淘汰とは、価値が消えることではなく、価値にふさわしい形に変わることである。火に照らされ、燃えてはいけないものが守られ、既に役割を終えたものが静かに溶けていく。その過程を経たとき、読者は自らの人生と組織と国家の中で、「選び取る」という主体の位置に立つことができる。火は主体性の試金石であり、主体性は生存戦略である。

2027年(丁未/ひのとひつじ)の象意は、「火の翌年の芽吹き」であり、丙午で照らされた可燃物が棚卸しされ、丁未はその跡地に発芽する構造が現れる。丙午で燃やしきれなかったものは翌年に腐る。腐ったものを土台に芽は伸びない。したがって、2026年はやみくもに守るのではなく、何を失ってよいか/何を守るかの判断を言語化し続ける必要がある。2027年に向けて価値が移行する領域は、AI倫理・サイバー安全保障・人的安全保障・メンタルフィットネス・学習再設計・複線的キャリア・分散型サプライチェーン・多文化労働市場の受け皿であり、これらに向けて2026年に行うべきことは、現行の前提から“卒業”する準備である。

さらに2028年(戊申)では、火と土の関係が再構築され、「制度化の年」が訪れる可能性がある。ここで鍵になるのは、2026年に決断した者が制度化の中心に立ち、2026年を傍観した者は制度の外側に回るという二極化である。政治でも、企業でも、家庭でも、制度化の中心に立てるのは、火の中を歩き切った者だけである。安岡正篤が説いた「人物学」の眼から見ても、火の中で人格が試され、主体が磨かれ、初めて「人材」は「人物」へと変わる。人物とは肩書きではなく、火の中で責任から逃げなかった者のことである。

丙午の年を生き抜く者に訪れる新しい秩序とは、「依存の終わり」であり、「設計の始まり」であり、「生存から存在へ」の移行である。

生存とは、生き延びることである。存在とは、生きる理由を持つことである。2026年を越えた後、読者が向かうのは後者である。

国家は設計し直せる。企業は生まれ変われる。個人は再設計できる。火がその機会を照らす。

火に追われるのではなく、火を連れて行け。

火を恐れるのではなく、火に照らさせよ。

火で焼かれるのではなく、火で余計なものを手放せ。

そのとき、火は敵ではなく、あなたの内部に存在する光になる。

読者への最後のメッセージ

あなたは丙午を恐れる必要はない。必要なのは、関与することである。関与とは、火の中で立ち止まることであり、立ち止まるとは、逃げないことであり、逃げないとは、自分の言葉で世界を説明することである。

世界を説明できる者は、世界に飲まれない。言葉を持つ者は、燃えにくい。だからこそ、2026年は言葉の年である。

そして、あなた自身が“国家の一部”として生きる年である。

終章まとめ

  • 火は破壊ではなく、淘汰の媒体
  • 2027年は発芽、2028年は制度化
  • 生存から存在へ
  • 火を連れて行く主体性
  • 言葉は防火壁であり、設計図である

おわりに

2026年は、社会・企業・国家にとって、逃げ場がなくなる年ではない。むしろ、逃げ場を探す必要がなくなるほど、自分の立つ場所が明確になる年である。火は壊れやすいものを壊すのではなく、残るべきものを残すために燃える。その視点を持てば、恐怖は減り、判断軸が増える。これからの社会で、生き残るのは強い者でも賢い者でもない。言葉を持っている者である。言葉とは、火に触れても崩れない心のフレームである。

2026年は、焦らずともよい。しかし、先送りはできない。関与しよう。観客席ではなく、設計室に座ろう。あなたの生活圏から国家を逆算し、あなたの人生から未来を設計してほしい。火に追われるのではなく、火を連れて行け。照らされた先で、あなたの秩序は始まる。2027年、2028年と連続する未来は、あなたが丙午の年に下した選択の延長線上に形を持つ。存在理由を問われたことは、存在がまだ失われていない証明であり、問いは祝福である。

火を恐れず、火を照らしに変えよ。火の年を越えた先に、あなた自身の秩序が誕生する。そのとき、丙午は恐怖ではなく、あなたを育てた師となる。

読者向けセレクト参考文献一覧(理解を深めるための推薦図書)

🔶安岡正篤・東洋思想【世界観の土台】

  • 安岡正篤『干支の活学』人物往来社
  • 安岡正篤『運命を創る』致知出版社
  • 致知出版社編集部『安岡正篤の教え』致知出版社

🔶陰陽五行・干支の理解

  • 布施泰和『陰陽五行と日本の暦』NHK出版
  • 長谷川啓『陰陽五行と日本人の暮らし』講談社現代新書

🔶2026年の世界を見るための視点(地政学)

  • ロバート・カプラン『地政学の逆襲』早川書房
  • ヨシハル・ハラリ『ホモ・デウス』河出書房新社
  • グレアム・アリソン『米中戦争前夜』東洋経済新報社

🔶国家戦略・日本の未来を考える

  • 小原雅博『日本の国家戦略』NHK出版新書
  • 宮家邦彦『地政学の思考法』PHP新書
  • 河野勝『国家はなぜ衰退するのか』中央公論新社

🔶人口・経済・社会構造の基礎

  • 山田順『人口減少社会の未来図』文藝春秋
  • 高橋洋一『世界経済の潮流と日本の針路』PHP研究所

ご感想、お問い合せ、ご要望等ありましたら下記フォームでお願いいたします。

投稿者プロフィール

市村 修一
市村 修一
【略 歴】
茨城県生まれ。
明治大学政治経済学部卒業。日米欧の企業、主に外資系企業でCFO、代表取締役社長を経験し、経営全般、経営戦略策定、人事、組織開発に深く関わる。その経験を活かし、激動の時代に卓越した人財の育成、組織開発の必要性が急務と痛感し独立。「挑戦・創造・変革」をキーワードに、日本企業、外資系企業と、幅広く人財・組織開発コンサルタントとして、特に、上級管理職育成、経営戦略策定、組織開発などの分野で研修、コンサルティング、講演活動等で活躍を経て、世界の人々のこころの支援を多言語多文化で行うグローバルスタートアップとして事業展開を目指す決意をする。

【背景】
2005年11月、 約10年連れ添った最愛の妻をがんで5年間の闘病の後亡くす。
翌年、伴侶との死別自助グループ「Good Grief Network」を共同設立。個別・グループ・グリーフカウンセリングを行う。映像を使用した自助カウンセリングを取り入れる。大きな成果を残し、それぞれの死別体験者は、新たな人生を歩み出す。
長年実践研究を妻とともにしてきた「いきるとは?」「人間学」「メンタルレジリエンス」「メンタルヘルス」「グリーフケア」をさらに学際的に実践研究を推し進め、多数の素晴らしい成果が生まれてきた。私自身がグローバルビジネスの世界で様々な体験をする中で思いを強くした社会課題解決の人生を賭ける決意をする。

株式会社レジクスレイ(Resixley Incorporated)を設立、創業者兼CEO
事業成長アクセラレーター
広島県公立大学法人叡啓大学キャリアメンター

【専門領域】
・レジリエンス(精神的回復力) ・グリーフケア ・異文化理解 ・グローバル人財育成 
・東洋哲学・思想(人間学、経営哲学、経営戦略) ・組織文化・風土改革  ・人材・組織開発、キャリア開発
・イノベーション・グローバル・エコシステム形成支援

【主な著書/論文/プレス発表】
「グローバルビジネスパーソンのためのメンタルヘルスガイド」kindle版
「喪失の先にある共感: 異文化と紡ぐ癒しの物語」kindle版
「実践!情報・メディアリテラシー: Essential Skills for the Global Era」kindle版
「こころと共感の力: つながる時代を前向きに生きる知恵」kindle版
「未来を拓く英語習得革命: AIと異文化理解の新たな挑戦」kindle版
「グローバルビジネス成功の第一歩: 基礎から実践まで」Kindle版
「仕事と脳力開発-挫折また挫折そして希望へ-」(城野経済研究所)
「英語教育と脳力開発-受験直前一ヶ月前の戦略・戦術」(城野経済研究所)
「国際派就職ガイド」(三修社)
「セミナーニュース(私立幼稚園を支援する)」(日本経営教育研究所)

【主な研修実績】
・グローバルビジネスコミュニケーションスキルアップ ・リーダーシップ ・コーチング
・ファシリテーション ・ディベート ・プレゼンテーション ・問題解決
・グローバルキャリアモデル構築と実践 ・キャリア・デザインセミナー
・創造性開発 ・情報収集分析 ・プロジェクトマネジメント研修他
※上記、いずれもファシリテーション型ワークショップを基本に実施

【主なコンサルティング実績】
年次経営計画の作成。コスト削減計画作成・実施。適正在庫水準のコントロール・指導を遂行。人事総務部門では、インセンティブプログラムの開発・実施、人事評価システムの考案。リストラクチャリングの実施。サプライチェーン部門では、そのプロセス及びコスト構造の改善。ERPの導入に際しては、プロジェクトリーダーを務め、導入期限内にその導入。組織全般の企業風土・文化の改革を行う。

【主な講演実績】
産業構造変革時代に求められる人材
外資系企業で働くということ
外資系企業へのアプローチ
異文化理解力
経営の志
商いは感動だ!
品質は、タダで手に入る
利益は、タダで手に入る
共生の時代を創る-点から面へ、そして主流へ
幸せのコミュニケーション
古典に学ぶ人生
古典に学ぶ経営
論語と経営
論語と人生
安岡正篤先生から学んだこと
素読のすすめ
経営の突破口は儒学にあり
実践行動学として儒学に学ぶ!~今ここに美しく生きるために~
何のためにいきるのか~一人の女性の死を見つめて~
縁により縁に生きる
縁に生かされて~人は生きているのではなく生かされているのだ!~
看取ることによって手渡されるいのちのバトン
など
シエアする:
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