
なぜ国家リーダーは“権力の座”にしがみつくのか 〜心理学と脳科学が明かす深層メカニズム〜
はじめに──「権力の座」は、救いか、呪いか
現代において、国家の命運を握るリーダーとは、単なる政策実行者でも、演説の名手でもない。彼らは、国家の制度、外交、安全保障、経済の行方を最終的に決定する「象徴的存在」であると同時に、時として国家そのものを歪めてしまう「危険な存在」にもなり得る。とりわけ問題となるのが、権力の座に固執するリーダーたちである。
なぜ、彼らは任期や制度を超えてまでも、権力を手放すことを拒むのか。なぜ、退くべき時に退かず、国家の未来をも賭けるような政治行動に出てしまうのか。その背景には、単なる個人的野望や欲望だけでは説明しきれない人間心理の深層構造が横たわっている。
実際、心理学の研究では「権力は人を変質させる」とする多くの実証的知見が積み重ねられてきた。たとえば、権力を持つことによって他者への共感能力が低下し、自己評価が過剰になりやすくなる「パワー・パラドックス」や、「支配欲求」が理性を凌駕していく過程などが挙げられる。さらに、近年の脳科学は、「ドーパミン報酬系」が権力によって強く刺激されることで、中毒性(Addiction)に似た依存傾向が形成されることを明らかにしている。
つまり、国家のリーダーが「しがみつく」のは、ただの政治的打算ではなく、人間の進化的・神経的メカニズムに根差した“内的渇望”による可能性があるのだ。
このようなメカニズムが働くとき、リーダーは次第に「自分が去れば国家が崩れる」と錯覚し、批判を排除し、外交的バランスを崩し、国家の制度や国民の信頼を犠牲にする選択さえ正当化し始める。それがやがて国家のガバナンスそのものを蝕み、国民を分断させ、同盟国との関係を揺るがすことにもつながっていく。
本稿では、こうした権力執着の構造的本質を、「心理学」「脳科学」「歴史的実例」「思想的視点」から多面的に明らかにしていく。政治的立場や個人攻撃に終始するのではなく、構造的かつ理論的に「なぜ権力は人を手放させないのか」という問題に迫り、最終的には日本社会全体に突きつけられた問い──「リーダーとは何者であるべきか」を、読者とともに考えるものである。
国家を正しく導く者は、権力に頼らず、権力を超える。
本稿は、その逆説的真理を浮き彫りにする、実証的かつ思想的な試みである。
第1章:人間はなぜ権力に執着するのか──心理学と脳科学の視座
1-1. 権力欲は人間の本能か、それとも社会的産物か
権力への欲望は、人類が原始の群れ社会で生き延びてきた進化の過程において獲得された基本的欲求のひとつである。古代から現代に至るまで、支配と服従、命令と従属の関係は社会のあらゆる層に遍在し、国家、組織、家庭に至るまで「力の非対称性」は構造の根幹を成してきた。
心理学者アブラハム・マズローは「自己実現の欲求」を人間の最高次の欲求としたが、後年の研究者たちは、マズローのピラミッドのさらに上に「超越欲求」や「地位欲求(dominance)」が存在することを指摘した。すなわち、人間は単に生きるだけでなく、「他者より優位に立ちたい」「他者を支配したい」という欲求を本能的に持っているのである。
この「支配欲(power motive)」は、心理学的にはマクレランドの欲求理論においても重要な位置を占める。達成欲求(achievement)、親和欲求(affiliation)と並び、権力欲求(power)こそが人間の行動を突き動かす原動力の一つである。
1-2. ダークトライアドと“政治的リーダー”の病理
現代心理学において、権力に固執する人物に共通する人格傾向として注目されているのが、「ダーク・トライアド(Dark Triad)」と呼ばれる3つの性格特性である。
- ナルシシズム(自己愛性人格):自らを過剰に評価し、他者の賞賛や服従を求める。
- マキャヴェリズム(策略性人格):目的のために手段を選ばず、他者を操作する傾向。
- サイコパシー(反社会性人格):共感性の欠如と衝動的支配行動。
これらの特性を高いレベルで持ち合わせる人物は、表面上は魅力的でカリスマ性を備えているように見えるが、内面では極度に自己中心的で支配志向が強く、他者の痛みに鈍感である。このような人物が政治の世界で権力を握ると、国家の運命は個人の精神構造に引きずられる危険が生じる。
事実、歴史を振り返れば、極端な自己愛や偏執的支配欲を持ったリーダーが政権を私物化し、結果的に国家を混乱と破滅へ導いた例は枚挙に暇がない。
1-3. 権力は脳を変える──神経科学が語る「権力中毒」
権力が脳に与える影響については、カナダの神経学者スーザン・ファスクーらの研究が興味深い示唆を与えている。彼女の実験では、一定期間「権限」を与えられた被験者が、他者の視点を理解する能力(共感神経の活動)が著しく低下することが示された。
つまり、権力を持つことで人は「他者の痛みや視点に鈍感になり、自分の視座のみで世界を判断し始める」という神経生理学的変化を起こすのである。これは俗に言う“裸の王様”状態であり、本人の意図に関わらず、脳そのものが共感を抑制し、自己中心的な判断を強化する構造へと変化していく。
さらに、権力を手にしたときに分泌されるドーパミンは「快楽・報酬」に深く関与しており、この状態が習慣化すると、権力そのものが中毒的に求められるようになる。これはアルコールや薬物と同様の“報酬系依存”であり、合理的判断ではもはや自ら権力を手放すことができなくなる。
1-4. 権力は人格を試す“試金石”である
このように見ていくと、権力とは単なる政治的地位や影響力を指すものではなく、人間の深層心理と神経生理に直接働きかける、非常に強い作用をもった存在であることが分かる。ゆえに、権力を手にした人物がそれに耐えうる人格と倫理性を持っているかどうかが、国家の命運を左右する。
真のリーダーは、権力を持つことに価値を置くのではなく、それを「いかに使うか」「いかに手放すか」にこそ自らの責任を見出す。反対に、自らの存在価値を権力に依存し、手放すことを恐れたとき、その人間の思考と行動はもはや国家のためではなく、自身の延命のために費やされることになる。
次章以降では、こうした権力の心理的・生理的メカニズムを背景に、実際に権力へ執着し続けた宰相たちが、いかにして国家を変容させたのかを事例を通して検証していく。
図表1:脳科学で見る権力中毒のメカニズム
項 目 | 内 容 |
権力取得時 | ドーパミン報酬系が活性化し快感を得る |
継続的権力行使 | 共感神経ネットワークが抑制される |
権力喪失の恐怖 | 扁桃体が過剰反応し、敵意や不安が増大 |
判断傾向 | 自分に都合のよい情報のみを選択(認知バイアス強化) |
長期影響 | 自己の判断の正当化 → 孤立 → 人的ネットワーク崩壊 |
第2章:田中角栄──金と人脈に固執した“昭和の権力者”の光と闇
2-1. 戦後日本のカリスマ:異例の出世と民衆的人気
田中角栄は、戦後日本の政治史において最もカリスマ性と実行力を併せ持った宰相として評価されている。学歴がないという劣等感を抱きつつ、独学と現場の経験によって国会議員に上り詰めた彼は、「今太閤」と呼ばれ、政界で異例のスピード出世を遂げた。
彼の政治スタイルは極めて実利主義的であった。国民の生活改善を掲げた「列島改造論」は、インフラ整備を通じて地方経済を活性化させ、当時の日本人に「生活が良くなった」という実感を与えた。とりわけ道路、新幹線、空港などの整備は、地方の有権者にとって分かりやすく、田中政治の象徴として深く記憶されている。
しかし、その圧倒的な支持と引き換えに、彼が構築した政治構造には、後に日本政治を深く蝕むこととなる「金と人脈」の温床があった。
2-2. 金権政治の完成と“集票マシン”としての派閥支配
田中角栄の権力基盤は、単なる人気や弁舌ではなく、現金の流れと組織的支配に支えられていた。彼が築いた田中派は、自民党最大の派閥として政官財に強大な影響力を誇り、その勢力は与党内閣を事実上コントロールするほどであった。
特筆すべきは、彼が地元有権者や企業に対して「利益誘導」を行い、その見返りとして「集票力」を維持するという、日本的派閥政治の典型とも言える構造である。いわゆる「カネで票を買う」「公共事業で票田を固める」というスタイルは、その後の日本政治に大きな影響を与えた。
このような金権政治は、支持を広げる一方で、自民党の倫理観を歪め、政治腐敗を常態化させる下地となった。田中の政治スタイルは「結果を出す現実主義」と称賛される一方で、「裏金と密室」の代名詞としても語り継がれている。
2-3. ロッキード事件──栄光から転落への転機
1976年、田中角栄は「ロッキード事件」によって逮捕・起訴され、日本の戦後政治史上初めて現職もしくは元首相が刑事責任を問われるという異常事態となった。この事件では、米国の航空機メーカーからの巨額の賄賂を受け取ったとされ、最終的に有罪判決を受けた。
しかし注目すべきは、彼が起訴された後も「議員辞職」を拒み、政界に強い影響力を持ち続けたことである。すでに表舞台からは退いたにもかかわらず、田中派のボスとして人事や政策に強く関与し続けた様子は、まさに「影の総理」「院政政治」の典型であった。
この時期に、竹下登、小渕恵三、橋本龍太郎といった後の首相を含む“田中チルドレン”たちが台頭し、金権的政治構造が事実上温存され続けたことは、後年の日本政治にも負の遺産をもたらした。
2-4. 権力にしがみついた末路──国家への長期的影響
田中角栄は、実行力のある政治家として確かに多くの成果を残した。だが同時に、彼の政治手法は「公私混同」「利権優先」「忖度文化」の原型を生み出し、それが日本の政治行政に深く根を下ろすこととなった。
彼が政界に残したものは、道路や空港だけではない。むしろ最も深刻なのは、「政治とはカネと組織で動かすものだ」という価値観の定着である。この価値観は、政治を本来あるべき「国家理念の体現」から引き離し、利害調整機関へと貶めた。
そしてもう一つの負の側面は、権力を手放さないという習性の定着である。田中がロッキード事件後も政界を操ったように、日本の政治には「退く美学」が欠如していった。これは次章で論じる石破茂総理にも通底する問題である。
2-5. 「角栄的支配モデル」の終焉と再生の鍵
1990年代の政治改革により、派閥政治や中選挙区制は一定程度の是正がなされたが、田中的権力構造の影響はなおも色濃く残る。近年においても、政界では「金の流れ」「派閥の支配力」「世襲の優遇」が未だに温存されている。
この構造を変えるには、「政治の透明性」だけでは不十分である。むしろ必要なのは、「権力を持つ人間の人格的成熟と去り際の倫理」である。これは後章で論じる安岡正篤の宰相論、蘇洵の朋党論にも通じる。
第3章:石破茂──理論家の仮面をかぶった“国家軸喪失型リーダー”
3-0. 田中角栄を“最後の師”と仰ぐ政治的継承者
石破茂は、あるインタビューにおいて、「私は、自分を田中角栄の最後の弟子だと思っている」と語っている。この言葉は、石破の政治家としての自己認識を象徴的に示すものであり、彼の政治理念・政策姿勢の原点を理解するうえで極めて重要である。
田中角栄の政治は、戦後復興の実務型リーダーとして、「現場主義」「国民目線」「構想力ある国家設計」を掲げ、数多くの具体的政策を実現に導いた。石破もまた、「安全保障政策の専門家」「地方創生の理論家」として、地方重視の国家像を提示しようとした点において、確かに思想的な連続性を持っているといえる。
しかし、両者の根本的な違いは、その権力掌握能力と組織統率力にある。田中は、資金力・人脈・利権配分を通じて政党内に強固な派閥を形成し、政権を掌握した。一方、石破は、政策論において高い評価を受けながらも、党内での基盤を構築できず、繰り返し総裁選に立候補するも敗北を繰り返した。2024年9月の総裁選に立候補し、9月27日に行われた投開票では、1回目の投票においては、高市早苗が181票を獲得して1位となったが過半数には達せず、154票を獲得した2位の石破茂との決選投票に進んだ。党内の謀略により決選投票では215票を獲得して高市早苗を破り、5度目の挑戦にして、悲願であった第28代自由民主党総裁に選出された。同年10月1日に内閣総理大臣に就任した。
さらに、田中が親米・現実主義を軸に外交を展開したのに対し、石破は対中融和をにじませつつ、対米同盟の重要性について明確な一貫性を示すことができなかった。これは、「理念と構想を語る力はあるが、現実を動かす胆力と覚悟に欠ける」政治家としての弱さを物語っている。
つまり石破茂は、田中角栄の“最後の弟子”を自認しながらも、その手法と時代性を継承できず、むしろ「理論を装いながら国家の軸を見失う」型の後継者となったのである。
このような観点から本章では、石破茂がどのようにして権力に執着し、国政の最高権力者に上り詰めながらも、日本の外交、安全保障、政治的信頼を損なっていったかを、心理的背景、政策分析、外交姿勢を通して多面的に論じていく。
3-1. 権力獲得への執着:正論を盾に野心を貫いた歩み
石破茂は、政策通としての評価やメディア対応の巧みさから、長らく「次の総理候補」として名前が挙がってきた。しかし、冷静にその政治的歩みをたどれば、彼が一貫して抱えてきたのは「正論を掲げることにより自身の政治的正当性を確保しつつ、権力の中枢に迫りたい」という極めて戦略的な野心である。
実際、彼は複数回にわたって自民党総裁選に挑戦し、そのたびに「現政権への批判」「政策通としての識見」「地方重視の理念」などを訴えた。しかし、いずれの挑戦でも「組織統率力の欠如」「協調性の乏しさ」「党内基盤の弱さ」が露呈し、敗北を重ねる結果となった。
ここに見られるのは、「正論を語る」ことはできても、「人を動かし、組織をまとめる」リーダーとしての資質に欠ける姿である。理念と現実の間に深い断絶があり、それを埋める政治的胆力と調整力を持ち合わせていなかった。
それにもかかわらず、石破は総裁就任への執念を捨てなかった。その執念は、「政策を実現するための情熱」というより、「自らが頂点に立つこと」への執着に近いものであり、現代的な形での“権力へのしがみつき”であると言える。
3-2. 媚中路線の危うさ──理念なき融和外交
石破政権における最大の外交的懸念は、対中政策における“過度な融和姿勢”である。かつてより、彼は中国との対話重視を強調し、習近平政権との関係改善に意欲を示してきた。だが、それは単なる“バランス外交”ではなく、国家主権や安全保障への配慮を欠いた“融和一辺倒”に近い姿勢であった。
台湾有事や南シナ海問題、新疆ウイグルにおける人権侵害といった重大な国際的懸案に対して、石破は明確な立場を打ち出さず、発言も歯切れの悪いものであった。こうした態度は、自由・人権・民主主義という価値観を共有する西側諸国との連携を弱め、日本の国際的信頼を損なう要因となる。
また、経済面においても、中国市場への依存度を高める姿勢が強く、「短期的な経済利益」のために「長期的な地政学的リスク」を軽視していると批判されている。経済界との癒着が見え隠れする場面もあり、国益よりも業界団体との利害調整を優先する姿勢は、「田中角栄型の利権政治」と本質的に重なる構造である。
3-3. 対米同盟軽視──安全保障の根幹を揺るがす選択
石破茂の外交方針には、日米同盟の軽視という深刻な懸念もある。安倍政権が推進してきた「自由で開かれたインド太平洋構想(FOIP)」や日米豪印による「クアッド」への関与に対して、石破は明確な積極姿勢を見せず、むしろ「対話」「自立外交」「中立性」を強調する傾向がある。
だが、今日の東アジアにおいて、日米同盟は単なる外交戦略ではなく、安全保障の「柱」であり、「国家生存の基盤」である。それを曖昧にし、米国との同盟関係に距離を置くという姿勢は、結果として中国に誤ったメッセージを送る危険性を孕んでいる。
米国保守派や軍関係者からも石破に対する警戒感が強まっており、彼の曖昧な外交姿勢が「日本の信頼性を損ねる」と懸念されている。日米間の信頼関係は、外交儀礼を超えた「相互抑止と協調の仕組み」であり、これを損なうことは日本の安全保障環境にとって致命的である。
3-4. 誰からも信頼されない外交──孤立する日本の未来
石破茂が推進する外交方針は、対中融和と対米中立という二正面のバランスを取る意図であるかのように見えるが、実際には「どちらにも明確なメッセージを送れない曖昧外交」である。その結果、日本は中国からは軽んじられ、米国からは不信感を抱かれるという「誰からも信頼されない状態」に陥る危険性が高い。
さらに、国内においても、こうした外交姿勢は保守層の反発を招き、官僚機構からの信頼を損なう。防衛省や外務省など現場の実務機関は、石破政権下での不安定な外交方針に対して調整不能となり、政策の一貫性が失われる事態に陥るであろう。
外交は、国家の歴史観と価値観を映し出す鏡であり、為政者の胆力と信念が最も試される領域である。石破茂のように理念先行で行動力と一貫性を欠く指導者が外交を担うことは、国家の軸を失わせ、国際社会における日本の存在感を急速に低下させる結果となる。
3-5. 権力への執着と国家の軸喪失──現代型“しがみつき”の末路
石破茂の政治的特徴は、田中角栄のような明示的な金権支配とは異なるものの、「理念や批判を盾に自らの政治的正当性を誇示し、決して諦めずに権力の頂点を目指し続ける」という点で、異なる形での“執着”を体現している。
興味深いのは、この二人が権力に対して固執しつつも、まったく異なる形で国家に影響を与えてきたという点である。その比較構造は、以下の通り明確に対比される。
図表が示す“師弟”の落差──田中角栄と石破茂の本質的な違い
石破茂は、自らを「田中角栄の最後の弟子」と公言し、地方主権・現場主義といったキーワードにおいて、その理念を継承しているかのような姿勢を示してきた。しかし、両者を冷静に比較すれば、その本質的な違いは極めて大きい。
田中角栄は、実行力・人間力・組織力を兼ね備え、派閥を掌握しながら政権を築き上げ、日本の高度成長を後押しする数々の政策を断行した。一方の石破茂は、理念や理論を語る場面こそ多かったが、現実政治の場面においては明確なビジョンを打ち出すことも、国民的な信任を得ることもできなかった。とりわけ、曖昧な安全保障論、優柔不断な同盟外交の姿勢、中国への過剰な迎合とも取れる発言などは、かえって多くの国民に不信感を与える結果となっている。
また、田中が「圧倒的な求心力」によって人と資金を引き寄せたのに対し、石破は党内での人脈形成に失敗し、総裁選挙では繰り返し敗北を喫した。田中角栄の“弟子”を自称しながらも、その実績・胆力・国家観においては大きく乖離していたのである。
以下に示す図表は、こうした両者の統治手法、権力構造、国家観の違いを視覚的に整理したものであり、“思想の継承”と“現実の執行力”の断絶を明確に浮かび上がらせるものである。
図表2:田中角栄と石破茂の権力執着構造 比較マトリクス
項目 | 田中角栄 | 石破茂 |
権力基盤 | 派閥支配、経済利権 | 理論重視、党内孤立 |
政治姿勢 | 利益誘導、現実主義 | 理念優先、言辞だけで実行力に乏しい |
外交路線 | 親米重視(同盟路線の維持) | 親中融和(対中配慮・対米協調に消極的) |
末路 | ロッキード事件後も政界に影響力を維持(院政) | 単独首相就任に固執し、党内・国民の信頼を漸減させる |
この比較から浮かび上がるのは、「金脈」と「理論」、「組織支配」と「孤立主張」、「親米路線」と「媚中方針」という対照的要素に貫かれながらも、いずれも“権力を手放せないリーダー”という共通点を有している点である。すなわち、方法は異なれど、国家の軸を自己中心的な欲望によって歪めたリーダーたちなのである。
その結果、外交、経済、内政、すべてにおいて「国家の軸」が失われる。国家ビジョンは揺らぎ、国民の期待は分断され、官僚機構は迷走する。そして最後に残るのは、誰も責任を取らず、誰も未来を描かない国家である。
このような権力への執着は、静かに、そして確実に国家を蝕んでいく。次章では、このようなリーダーたちが国家と国民に何をもたらしたのか、その影響を多角的に分析する。
第4章:権力にしがみついたリーダーたちが国家に残したもの
4-1. 政治的混乱と官僚機構の麻痺
権力に執着したリーダーが長期的に国家運営を担うと、必然的に官僚機構や政党組織の健全性が損なわれる。田中角栄の時代、派閥と利権の網の目が政官財を結びつけ、政策決定はしばしば「公共事業の配分」「票田の確保」といった短期的利益に左右された。これは、官僚の人事権や予算配分を政治的圧力で歪める「官僚支配」の一形態であり、結果として行政の透明性と効率性を著しく損ねた。
石破政権においても、別の形で同様の麻痺が進行する危険がある。彼の理念先行型の発言は官僚現場の調整を軽視する傾向があり、また外交・安全保障においても曖昧な姿勢が続けば、官僚は「何を基準に動けばよいのか」を見失う。これにより、国家の中枢である官僚組織は硬直化し、迅速かつ実効的な政策立案・実行が困難になる。
4-2. 民主主義制度の形骸化
権力への過度な執着は、民主主義そのものを空洞化させる。田中角栄が支配した時代、選挙は派閥と資金力の競争の場となり、政策よりも「どれだけ利益誘導を約束できるか」が当選の鍵となった。こうした金権政治は、民主主義を本来の「民意を反映する仕組み」から逸脱させ、制度そのものの信頼性を低下させた。
現代の石破政権でも、民主主義の形骸化は別の形で進む可能性がある。理念先行で現実的な政策実現力を欠いた場合、議会運営は停滞し、与党内外の不信が増幅する。また、外交や安全保障での優柔不断な対応は国会審議を形骸化させ、「ただ時間を消費するだけの議論」に陥る危険がある。
4-3. メディア統制と忖度政治の蔓延
権力者が長期にわたり政権を維持すると、メディアは次第にその影響力に屈し、批判的報道が減少する傾向にある。田中政権時代は、新聞・テレビなどのマスコミが公共事業や政治資金の流れに関して慎重な姿勢をとることが増え、結果として権力者に都合のよい報道が優勢となった。
現代においては、メディア統制はより巧妙かつ間接的な形で現れる。政権が広告収入や情報提供の独占を通じてメディアに影響を及ぼすことで、批判的言説が萎縮する。石破政権でも、メディアとの距離感や情報発信の戦略性次第で、批判的報道が抑制される懸念がある。
こうした状況は、国民に対して「本当に重要な情報が届かない」「真実が見えない」という不信感を醸成し、民主主義の根幹を揺るがす。
4-4. 社会的分断と国民心理の劣化
権力への固執は、しばしば国民を分断させる。田中角栄の場合、利益誘導の恩恵を受ける地域とそうでない地域の格差が拡大し、地域間の不公平感を生み出した。石破政権では、外交や安全保障での優柔不断な態度が、保守層とリベラル層の対立を激化させる可能性が高い。
さらに問題なのは、国民の政治的無力感である。「どうせ何を言っても政治は変わらない」という諦めが広がると、選挙の投票率は低下し、健全な民主主義の基盤が崩れる。国民が政治を信頼できない社会は、経済成長や社会統合においても深刻な停滞をもたらす。
4-5. 国家の信頼失墜と外交的孤立
国内政治の劣化は、外交においても大きな負の影響を与える。権力者が国家の利益よりも自己の延命や派閥の利害を優先すると、外交交渉は弱腰となり、国際社会からの評価は低下する。田中角栄が日中国交正常化という歴史的外交成果を挙げた一方で、国内の金権政治スキャンダルは国際的な信用を損なった。
石破政権においては、媚中姿勢や対米同盟の軽視が国際的孤立を招く恐れがある。特に米国との関係悪化は、アジア太平洋地域における日本の安全保障の根幹を揺るがし、結果として中国や他国に隙を与えることになる。
4-6. 結語:権力執着の連鎖が残す負の遺産
田中角栄と石破茂という二人のリーダー像を比較すると、手法や時代背景は異なれど、いずれも「権力の延命」を優先した結果、国家や国民に深い影を落としている。田中は金権支配の構造を、日本政治に「常識」として残した。石破は理念と現実の齟齬による迷走を、日本の外交と安全保障に不安定性として刻む可能性がある。
国家に必要なのは、「権力を握り続ける強さ」ではなく、「必要な時に権力を手放す覚悟」である。これを欠いたリーダーは、たとえ一時的に支持を得ても、国家と国民の未来に破壊的影響を与えるのである。
第5章:東洋思想の警鐘──蘇洵と安岡正篤に学ぶ「出処進退」
5-1. 「出処進退」とは何か──リーダーの覚悟を問う東洋の智慧
「出処進退」とは、為政者がいつ権力の場に出て、いつ潔く退くかを指す古典的概念である。この思想は、東洋の政治哲学において極めて重視されてきた。出処を誤れば未熟なまま権力を手にし、進退を誤れば国家を混乱に陥れる。
この概念は、単なる時機の問題ではない。「何のために出るのか」「何のために退くのか」というリーダーの国家観と自己認識の深さを問うものである。すなわち、出処進退は人徳と歴史観、そして国家への忠誠の試金石なのである。
5-2. 蘇洵『朋党論』に見る“私利私欲の政治”の末路
宋代の思想家・蘇洵(そじゅん)は、名著『朋党論』において、権力の私物化が国家をいかに蝕むかを鋭く論じた。彼は、「小人は党を組みて私を謀り、君子は党を組みて公を謀る」と述べ、利己的集団が政治の中枢に入り込むことの危険性を警告している。
この視点から見れば、田中角栄の築いた「派閥と利権による支配構造」は、まさに小人による朋党政治の典型であり、「公」を忘れた「私」の政治であった。そして石破茂の政治姿勢も、表面上は清廉に見えても、理念の装いをまといながら「自己の政治的生存を最優先」する姿は、同じく“私”を優先した権力執着の変形である。
蘇洵はこうしたリーダーのあり方が、国家の精神を腐敗させ、政と民との乖離を招くと断じている。すなわち、「信の喪失」「制度の空洞化」「志ある者の排除」という流れが、国家の崩壊へとつながるのである。
5-3. 安岡正篤の宰相論──「義に従い、時を見て去る」人間の尊さ
昭和の思想家・安岡正篤は、多くの政治指導者に思想的影響を与えた人物であり、とりわけ「宰相の条件」について深い洞察を示したことで知られる。彼は、リーダーに必要な資質として「人格」「識見」「歴史観」の三本柱を挙げ、それらが備わらない者は「時を誤り、身を誤り、国を誤る」と断言した。
安岡は、「義に従い、時を見て去る」ことこそ、為政者の最も美しい行動であると説いた。自らの地位に固執するのではなく、「時の流れ」と「国の行方」を見極め、必要なときに潔く退く。これができるリーダーこそが、後世に尊敬され、国家の礎となる。
現代の日本政治においては、この「去る美学」が著しく損なわれている。政権延命に腐心し、後進の台頭を妨げ、国家の変革の機会を失わせてきた。これは、安岡のいう「器量と覚悟の欠如」に他ならない。
5-4. 「時を誤る」ことが国家に与える影響
国家の歴史において、リーダーが去り際を誤ることほど致命的な過ちはない。自己の延命にこだわるリーダーは、政策判断において保身的となり、構造改革や危機対応に背を向ける。また、周囲に忠言を述べる人物は排除され、忖度と追従の者のみが残る。
田中角栄は、ロッキード事件後も「政界にとどまり続けた」ことにより、院政政治と派閥主義を固定化させた。石破茂は、総理就任にこだわるがゆえに、現実の支持を得られず、党内の結集を妨げる要因となった。いずれも、「時を見て去る」という判断を欠いたことが、国家にとっての損失となっている。
5-5. 日本再生の鍵は「去る覚悟」にある
東洋思想が繰り返し強調するのは、「去り際こそ人格の真価が問われる」という点である。権力とは、人間の器量と品格を最も明瞭に露わにする場であり、それを「どう得たか」「どう使ったか」よりも、「どう手放したか」が最終的評価を決める。
現代日本における宰相に求められるのは、任期を満了することでも、長く政権を維持することでもない。国の未来を見据え、「いま、自分が退くことが最も国家にとって有益である」と判断できる勇気と見識である。これこそが、真の出処進退であり、東洋が育んだ最も深い政治哲学なのである。
第6章:私たちはどのようなリーダーを求めるべきか──現代への提言
6-1. 権力への執着から「責任ある退却」へ
本稿で一貫して論じてきたのは、「権力にしがみつくこと」そのものが国家にとっていかに有害であるかという事実である。リーダーがその座に固執するあまり、政策判断が保身的となり、国益を損ね、組織を歪ませ、国民を分断し、国家の品格と信頼を失墜させる。
その逆に、歴史に名を残す優れたリーダーは、共通して「退き際の美学」を身につけていた。英国のチャーチルは戦後選挙で敗北しつつも、国家の再建を後進に託した。米国のワシントンは、二期八年の任期を自ら制限し、民主主義国家の原型を示した。
真のリーダーとは、「権力を持ち続ける人物」ではなく、「権力を手放すべき時を知る人物」である。
6-2. 現代に求められるリーダーの条件とは何か
現代において、混迷を極める国際環境と社会構造の変化に対応するには、単に政治的手腕や弁舌の巧みさだけでは不十分である。以下の5つの資質を備えたリーダーこそが、これからの国家を担うにふさわしい存在である。
(1)知性と構想力
国際関係、歴史、経済、哲学、科学技術──複雑化した現代社会においては、断片的知識ではなく、構造的理解と未来志向の構想力が不可欠である。国民の声を聞くだけでなく、「まだ誰も見ていない未来」を示すことがリーダーの仕事である。
(2)胆力と決断力
未曾有の危機や予測不能な事態に直面したとき、必要なのは「判断を遅らせない勇気」である。国家のかじ取りには、自らが批判を受けることを恐れず決断を下す胆力が求められる。
(3)謙虚さと共感力
権力は人間性を試す。自らが頂点に立っているという自覚を持ちつつ、常に民の声に耳を傾け、異なる意見に敬意を払える人物にこそ、本当の意味での「統治の資格」がある。共感なき政治は、いずれ破綻する。
(4)倫理観と自己制御
金銭、利権、メディア──あらゆる誘惑の中で、自己を律し続けられるか。どれほどの支持を集めようと、倫理を欠いた権力行使は、やがて国を蝕む。私利を断ち、公益に徹することがリーダーの鉄則である。
(5)去る覚悟
安岡正篤が説いたように、「義に従い、時を見て去る」ことこそ、リーダーにとって最も難しく、そして最も尊い行為である。自らの栄光よりも、国家の未来を優先できる人物こそが、真に尊敬される宰相である。
6-3. 市民の成熟なくして、真のリーダーは生まれない
リーダーは天から降ってくるのではない。市民の成熟と判断力こそが、国家の未来を決定づける。 いかに優れた候補者がいても、有権者が見抜く力を持たなければ、適切なリーダーは選ばれない。
メディアに踊らされず、人気や表面的な言動に流されず、長期的視野で人物を見極める力が、今まさに求められている。民主主義とは、自由と同時に責任を負う制度である。リーダーに退く勇気を求める前に、我々がその姿を見逃さぬ目を持たねばならない。
6-4. 制度と文化の整備で権力の暴走を防ぐ
制度的側面からの改革も不可欠である。例えば以下のような仕組みが求められる。
- 首相任期の上限設定(例:三選禁止など)
- 内閣官房の情報公開強化
- 政党内の民主性向上(派閥支配から政策志向型へ)
- シビリアンコントロールの強化(防衛・外交における説明責任)
- 国民教育における「出処進退」や倫理思想の重視
権力者の暴走は、個人の資質だけでなく、制度や文化の脆弱性によっても助長される。ゆえに、社会全体として「権力の使い方」と「手放し方」の美学を育てる必要がある。
6-5. 読者への問いかけ──あなたが望むリーダーとは
この記事を読んでいる読者の皆様に、最後に問いを投げかけたい。
「あなたは、どのようなリーダーを支持しますか?」
力強く国を引っ張る人物か。理路整然と語る人物か。国民と涙を分かち合う人物か。──答えはひとつではない。しかし、忘れてはならないのは、リーダーの品格は“去り際”に最も如実に表れるということである。
「己のために権力を使う者」ではなく、「国の未来のために去る者」を選び取る眼を、私たち自身が持てるかどうか。国家の行く末は、そこにかかっている。
おわりに:権力者の末路は、国家の未来の写し鏡である
権力とは、人間にとって最も強烈な魅力と危険を併せ持つものである。理性ある者であっても、一たび権力を握れば、脳は報酬を求め、共感を失い、判断を誤り、やがてそれを手放すことを恐れるようになる。そこにこそ、歴史の悲劇は繰り返される。
本稿では、心理学・脳科学、東洋思想、政治史の視点を交差させながら、国家のリーダーが権力に固執することが、いかに国家と国民に負の影響をもたらすかを論じてきた。
田中角栄は、金脈と利権によって支配の構造を築いた。石破茂は、理念を掲げながらも外交・安全保障の軸を見失い、権力への執着を持ち続けている。それぞれ異なるアプローチでありながら、共通するのは「時を見て去る」という政治家として最も重要な判断を怠った点である。
彼らの行動は、単なる個人の問題にとどまらず、国家制度、官僚機構、国民心理、さらには日本の国際的評価までも長期にわたり影響を及ぼしてきた。そして今、私たちが問われているのは、「次なるリーダーに何を求めるか」である。
安岡正篤の言葉を借りれば、「去り際にこそ人格の光が現れる」。蘇洵は、権力を私する者が国家を腐敗させると喝破した。これらの古典的警句は、現代においてもなお、その鋭さを失っていない。
民主主義国家において、最終的に権力者を選ぶのは私たち国民である。リーダーの姿は、すなわち国民の写し鏡である。だからこそ、今こそ私たちは、「退く勇気」を持つリーダーを支持し、「己のためでなく、国のために立つ者」を見抜く目を養わなければならない。
国家の未来は、権力をどう使うか以上に、「誰が、いつ、どのようにそれを手放すか」によって決まる。その真実に私たち一人ひとりが気づくこと。それこそが、この国を守り、次の時代を創る最初の一歩である。
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投稿者プロフィール

- 市村 修一
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【略 歴】
茨城県生まれ。
明治大学政治経済学部卒業。日米欧の企業、主に外資系企業でCFO、代表取締役社長を経験し、経営全般、経営戦略策定、人事、組織開発に深く関わる。その経験を活かし、激動の時代に卓越した人財の育成、組織開発の必要性が急務と痛感し独立。「挑戦・創造・変革」をキーワードに、日本企業、外資系企業と、幅広く人財・組織開発コンサルタントとして、特に、上級管理職育成、経営戦略策定、組織開発などの分野で研修、コンサルティング、講演活動等で活躍を経て、世界の人々のこころの支援を多言語多文化で行うグローバルスタートアップとして事業展開を目指す決意をする。
【背景】
2005年11月、 約10年連れ添った最愛の妻をがんで5年間の闘病の後亡くす。
翌年、伴侶との死別自助グループ「Good Grief Network」を共同設立。個別・グループ・グリーフカウンセリングを行う。映像を使用した自助カウンセリングを取り入れる。大きな成果を残し、それぞれの死別体験者は、新たな人生を歩み出す。
長年実践研究を妻とともにしてきた「いきるとは?」「人間学」「メンタルレジリエンス」「メンタルヘルス」「グリーフケア」をさらに学際的に実践研究を推し進め、多数の素晴らしい成果が生まれてきた。私自身がグローバルビジネスの世界で様々な体験をする中で思いを強くした社会課題解決の人生を賭ける決意をする。
株式会社レジクスレイ(Resixley Incorporated)を設立、創業者兼CEO
事業成長アクセラレーター
広島県公立大学法人叡啓大学キャリアメンター
【専門領域】
・レジリエンス(精神的回復力) ・グリーフケア ・異文化理解 ・グローバル人財育成
・東洋哲学・思想(人間学、経営哲学、経営戦略) ・組織文化・風土改革 ・人材・組織開発、キャリア開発
・イノベーション・グローバル・エコシステム形成支援
【主な著書/論文/プレス発表】
「グローバルビジネスパーソンのためのメンタルヘルスガイド」kindle版
「喪失の先にある共感: 異文化と紡ぐ癒しの物語」kindle版
「実践!情報・メディアリテラシー: Essential Skills for the Global Era」kindle版
「こころと共感の力: つながる時代を前向きに生きる知恵」kindle版
「未来を拓く英語習得革命: AIと異文化理解の新たな挑戦」kindle版
「グローバルビジネス成功の第一歩: 基礎から実践まで」Kindle版
「仕事と脳力開発-挫折また挫折そして希望へ-」(城野経済研究所)
「英語教育と脳力開発-受験直前一ヶ月前の戦略・戦術」(城野経済研究所)
「国際派就職ガイド」(三修社)
「セミナーニュース(私立幼稚園を支援する)」(日本経営教育研究所)
【主な研修実績】
・グローバルビジネスコミュニケーションスキルアップ ・リーダーシップ ・コーチング
・ファシリテーション ・ディベート ・プレゼンテーション ・問題解決
・グローバルキャリアモデル構築と実践 ・キャリア・デザインセミナー
・創造性開発 ・情報収集分析 ・プロジェクトマネジメント研修他
※上記、いずれもファシリテーション型ワークショップを基本に実施
【主なコンサルティング実績】
年次経営計画の作成。コスト削減計画作成・実施。適正在庫水準のコントロール・指導を遂行。人事総務部門では、インセンティブプログラムの開発・実施、人事評価システムの考案。リストラクチャリングの実施。サプライチェーン部門では、そのプロセス及びコスト構造の改善。ERPの導入に際しては、プロジェクトリーダーを務め、導入期限内にその導入。組織全般の企業風土・文化の改革を行う。
【主な講演実績】
産業構造変革時代に求められる人材
外資系企業で働くということ
外資系企業へのアプローチ
異文化理解力
経営の志
商いは感動だ!
品質は、タダで手に入る
利益は、タダで手に入る
共生の時代を創る-点から面へ、そして主流へ
幸せのコミュニケーション
古典に学ぶ人生
古典に学ぶ経営
論語と経営
論語と人生
安岡正篤先生から学んだこと
素読のすすめ
経営の突破口は儒学にあり
実践行動学として儒学に学ぶ!~今ここに美しく生きるために~
何のためにいきるのか~一人の女性の死を見つめて~
縁により縁に生きる
縁に生かされて~人は生きているのではなく生かされているのだ!~
看取ることによって手渡されるいのちのバトン
など